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Atelier Eren/アトリエ・エレン ヴァイオリン製作とファンタジーを綴る日記

【音楽】ヴェネツィア生まれの音楽家 ヴィヴァルディ

ヴェネツィア共和国(現在のヴェネツィア)に生まれたヴィヴァルティは理髪師の家庭に生まれます。父は理髪師であり、ヴァリオリニストでもあったため、ヴィヴァルデイはヴァイオリンに幼い頃から親しみます。

聖職者を目指しつつ音楽家へ

ヴィヴァルディは貴族でもなければ、裕福でもない一般的な家庭の出身。

10歳の時に教会付属学校に入学、そこで聖職者を目指しつつヴァイオリンの腕を上げていきます。当時のヨーロッパはコネ社会であり、スポンサーがいなければ音楽家は成り立たない世界でした。この時代の音楽は宗教音楽、つまり教会との関係が深かったため、聖職者になれば「コネ」を作れるというヴィヴァルディ家の判断で教会学校への道を選んだとも言われています。

ヴィヴァルディ

ヴィヴァルディは聖職者として階級を徐々に上げていき、20歳には責任のある地位まで登りつめました。ただ、ヴィヴァルディは喘息持ちで体が弱かったため、「在俗司祭」として聖職に携わることになりました。「在俗司祭」とは修道者として誓いを立てていない、一般的な司祭のことです。(教会勤めではない司祭)。ちなみに「在俗司祭」になったのは教会司祭として勤務するには体が弱すぎたのが理由らしいです。

その後、ヴィヴァルディはキリスト教の孤児院で音楽院教師になり、同時に作曲も精力的に行いました。

精力的な作曲活動

ヴィヴァルディは教師を続けながら、「器楽曲」から「声楽」にいたる幅広い分野の作品を世に残しました。作曲活動の中心は【オペラ】で、特に自らが操るヴァイオリンを使用した「ヴァイオリン協奏曲」は最も得意としたジャンルとして数々の名曲を残しました。

オペラ ヴィヴァルディ

ヴィヴァルディの作曲活動は徐々に認められ、才能を開花させたヴィヴァルディの楽曲は次第にヨーロッパ各地から演奏興行オファーがくるほどの知名度になっていきます。その後、作曲家として成功したヴィヴァルディは音楽院教師としてではなく、作曲家としてヨーロッパの各都市を演奏旅行します。

ローマでの演奏

1723年から1724年にかけてはイタリア・ローマを訪れ、同地で3曲のオペラを上演しました。ローマ教皇の御前で演奏した文献もあり、当時のヴィヴァルディがいかに人気のある作曲家だったのかが伺えます。さらに1725年には再びローマ・サンタンジェロ劇場の作曲家兼興行主となり、1739年まで断続的に興行を行いました。

最後まで作曲に生きた晩年

イタリア・本土で高い人気を誇ったヴィヴァルディは更なる成功を求め、オーストリア・ウィーンにて興行を目指します。しかし、1番の理解者で有力なパトロンだったカール6世が逝去したことで状況は一変。かなりの資金をつぎ込み、挑戦した「ウィーンでの興行」はカール6世の逝去に伴い、全面中止となってしまいます。

演奏旅行による身体的な負担に加え、ウィーンでの興行ができなくなったことによる心労はヴィヴァルディを蝕みました。そして、ウィーンの劇場にあった作曲家用の宿舎で63歳で突然亡くなってしまっています。もともと体が弱かったこともあり、内臓を病んでいたともいわれています。

ヴィヴァルディの名曲

四季・冬


トヨタのCMの曲としても使用された耳に残りやすい名曲。四季は春が有名ですが、近年は冬の方がよくテレビでも流れています。

四季・春


義務教育でやたら聞かされるヴィヴァルディといえばこの曲!といったイメージ。春の訪れを感じる名曲です。

4つのヴァイオリンのための協奏曲 ロ短調


4つのヴァイオリンのための協奏曲は、ヴィヴァルディが作曲した全12曲からなる協奏曲集「調和の霊感」作品3の第10曲です。4つのヴァイオリンによる華やかな楽曲に仕上がっています。

まとめ

ヴィヴァルディは聖職者・教育者として人生の歩み、作曲家として大成した素晴らしい才能の持ち主。当時の知名度はバッハよりもヴィヴァルディの方が上で、この時代の大作曲家として世に君臨していました。

しかし、晩年は体の弱さに加え、運にも見放され、その知名度にそぐわない寂しい最後を迎えました。ですが、ヴィヴァルディの残した名曲の数々は現代でも親しまれており、特にヴァイオリンプレーヤーにはなじみ深いものとなっています。

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