早く生まれすぎた天才 モーツァルトの生涯

ハイドン・ベートーヴェンと並び、古典派三大作曲家の一角として数えられるモーツァルト。
管弦楽曲、オペラ、ピアノ曲といった多岐にわたる分野において大きな功績を残し、現代においても揺るぎない人気を誇る作曲家です。

今回は天才モーツァルトの生涯について掘り下げていきます。

クラシック作曲家 モーツァルト

神童と呼ばれたモーツァルト-演奏旅行の日々-

モーツァルトは1756年に七番目の末っ子としてヴォルフガング家に生まれ、ザルツブルクの宮廷作曲家であった父レオポルトのもと、音楽の英才教育を受けた経歴を持つ人物です。
3歳からチェンバロを弾き始め、5歳から早くも作曲を開始していたことから、早熟だったことが伺えます。

モーツァルト 幼少期

息子が天才であり神童であるだと確信した父はモーツァルトの演奏をヨーロッパ中に披露するため(自身の就職活動の兼ね)、親子でウィーン・パリ・ロンドンといった大都市への演奏旅行を開始。

モーツァルトは父の期待に答え、王宮や貴族相手にその実力をいかんなく発揮し、10歳にも満たぬ時期から大きな名声を博します。

常軌を逸した耳の良さ。即興能力。
下書きをしない天才とも称された記憶力。

モーツァルトの能力の高さはクラシック音楽家最強とまで称されています。

その実力は7歳のモーツァルトの演奏を聴いた作家ゲーテが「いずれ音楽界のシェイクスピアとなる存在」と唸らせるほどでした。

ゲーテ モーツァルト

11歳〜13歳の時期においてはイタリアの大都市を巡り、1770年(14歳)にしてローマ教皇より黄金拍車勲章を授与されます。

また、ボローニャにおいては音楽教師であったジョバンニ・バッティスタ・マルティーニ神父から対位法や和声の技術を学び、音楽性の幅を広げました。

イタリアでの活動は17歳まで続き、以下のような名曲にて大好評を博したと記録が残っています。

■初のオペラ『ポントの王ミトリダーテ』K. 87
■セレナード『アルバのアスカニオ』K.111
■オペラ『ルーチョ・シッラ』K. 135

その後も父レオポルトとモーツァルトの演奏旅行は続き、17歳〜19歳においては2回にも及ぶウィーン旅行を実施。オペラ『偽の女庭師』K. 196上演といった作品を残しました。

このように、幼少期〜青年期にかけてのモーツァルトは演奏旅行において各地を旅しながら音楽性を磨くサーカス団員のような生活を送り続けます。

ただ、長きにわたる演奏旅行が成功したのは天才的な音楽センスを持つモーツァルトだからこその事であり、常人であれば絶対に不可能であったことでしょう。

流浪の後、ウィーンへ移住

演奏旅行をひと段落させたモーツァルト(21歳)は拠点をザルツブルクからミュンヘン→マンハイム→パリへと移し音楽活動を展開します。

この時期のモーツァルトはやたら恋愛に力を注いでおり、父・レオポルトの弟の娘「マリア」や「アロイジア・ヴェーバー」といった女性に恋をしますが、いずれも上手くいかず、パリに出向いてからは受け入れ先のシャボー公爵夫人から嫌がらせを受ける、同行していた母が亡くなるという悲劇に見舞われます。

結局23歳の頃にザルツブルグへと戻りますが、そこでも雇用主であったザルツブルク大司教 コロレドと揉め、最終的には25歳でウィーンに定住します。

モーツァルトは35歳という若さでこの世を去った人物ですが、そのうちの約4年間を移住の繰り返しで過ごしたことは音楽史からみると非常に悔やまれます。

作曲活動に集中できる環境にあれば、もっと多くの名作が生まれた可能性もありますので。

ウィーンでの晩年

25歳から死去する35歳までの時期はモーツァルトの晩年に当たり、様々な名曲が生まれました。

ただ、当時の音楽界は貴族への音楽から民衆の為の音楽へと向かっていた過渡期であり、どうしても高給な仕事を取るのが困難でした。

そのため、華やかなイメージのあるモーツァルトですが、晩年は貧困に喘ぎます。

また、モーツアルトの才能を恐れていた宮廷楽長アントニオ・サリエリを中心とする貴族たちに演奏会を妨害され、思うように収入を得ることが出来なかったという説も残っています。

晩年のモーツァルトが残した主な曲

1785年 弦楽四重奏曲集『ハイドン・セット』
1786年 オペラ『フィガロの結婚』K. 492
1787年 オペラ『ドン・ジョヴァンニ』K. 527
1790年 オペラ 『コジ・ファン・トゥッテ
1790年 ピアノ協奏曲26番ニ長調 K. 537「戴冠式」
1791年 ピアノ協奏曲第27番 K. 595
1791年 ジングシュピール 『魔笛』 K. 620

晩年のモーツァルトは経済的に恵まれず、苦しい時期を過ごしましたが、輩出した曲は後世に残る名曲ばかりです。

特にオペラ分野に関してはフィガロの結婚・魔笛といった古典派を代表する名曲を残し、天才と呼ばれる実力をいかんなく発揮しています。

しかし、貧困の影響から徐々に体調を崩し、レクイエム K.626の作曲に着手した直後の1791年12月5日に35歳という若さでこの世を去りました。

死因は全身の浮腫と高熱を引き起こす「リューマチ性炎症熱」と言われていますが、サリエリによる毒殺説も浮上し、当時の音楽界において大きな物議を醸しました。

モーツァルトの死にはミステリアスな部分が多く、1984年には毒殺説を題材とした映画「アマデウス」が公開されるなど、未だに様々な考えが残っています。
ただ、現代では毒殺説はほぼ否定されており、リューマチ性炎症熱による死であったことがほぼオフィシャルな見解となっています。

モーツァルトの私生活と性格について

モーツァルトは26歳の時にウィーンにてウェーバーの従妹であるコンスタンツェと結婚し、4男2女をもうけています。ただ、そのうち4人は乳幼児のうちに死亡しているうえに、本人も早死してしまった為、親子そろって音楽家として活動することはかないませんでした。

また、意外にもモーツァルトは下ネタが大好きな人間であったことでも有名で、特にクソに関しては並々ならぬ情熱をもっていたようです。

『俺の尻をなめろ K. 231、K. 233』という曲も残しており、かなり変わった性格をしていたことは間違いないありません。

加えて、珍奇な行動が多かったことから「サヴァン症候群」であったという説があったり、賭博好きな「ギャンブラー説」を唱えている人も多くいます。

いずれにせよ、天才であるが故の奇人的な性質を持っていたことは確かです。

モーツァルトの音楽性

モーツァルトの作品はその殆どが長調であり、軽やかで優雅な曲調が多数を占めます。ただ、これはモーツァルトが作りたい音楽だったわけではなく、時代背景から「優雅な曲」を作らざるを得ない状況だったのです。

というのも、モーツァルトの時代は少し後のベートーヴェンの時代とは異なり、フリーランス音楽家として生きていくことが非常に困難な時代でした。

そのため、この時代の作曲家は有権者や貴族に仕えることが通例だったわけです。

「オリジナルな曲を書こうなんて、これっぽっちも考えたことはない」

これはモーツァルトが残した名言です。この言葉から彼は商業音楽に徹した人物であるということがわかります。

長調の曲が多いのは、モーツァルトに依頼される曲に「優雅さ」が求められていたからに他なりません。

ちなみに晩年に作られた曲の雰囲気がこれまでと若干異なる理由は、31歳の時に父が亡くなり、依頼によって書くのではなく、自分の書きたい曲を書くようになったからです。

彼本来の気質としては、短調の暗い曲を多く作りたかったのかもしれません。

モーツァルトの名曲

モーツァルトは作曲スピードが非常に速く、断片も含めると実に900曲以上を世に残しました。35歳で生涯を終えた人物としては、異常なまでの曲数です。
また、ジャンルに偏りがある作曲家が多い中、ほぼ全てのジャンルで代表作を創り上げたことでも有名です。

『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』


「セレナーデ第13番」とも呼ばれるこの曲はモーツァルトの特徴である優雅さを象徴とする名曲です。男性なら小学生時代に「バッカ・アホ・ドジ・マヌケー」という替え歌を歌ったことが一度はあるのではないでしょうか?

ピアノソナタ:第11番『トルコ行進曲付き』


モーツァルトが残した曲の中では最も知名度が高い曲といっても過言ではありません。全3楽章で構成されたピアノソナタですが、3楽章の「トルコ行進曲」が圧倒的な人気を持つため、単独で演奏される機会の方が多いです。

交響曲第25番 ト短調 K.183


モーツァルトが残した曲としては珍しい短調の曲。映画「アマデウス」の冒頭で使用されたことで、知名度が大きく上がりました。
晩年に作曲された曲だと思われがちですが、実は17歳の時の作曲されています。

レクイエム ニ短調 K.626


ヴェルディ、フォーレのレクイエムと並び、三大レクイエムと呼ばれるモーツァルトレクイエム。通称モツレクと呼ばれることもあります。

この曲はモーツァルトが生きている間に完成することはなく、死後に弟子のジュスマイヤーが意志を引継ぎで完成させました。

ちなみにバトルロワイヤル・エヴァンゲリオンで使用されたレクイエムではなく、柳葉さんと妻夫木さんが出演したロト7のCMで使われているレクイエムがモツレクです。

歌劇 フィガロの結婚 序曲


同じ古典派の巨匠であるハイドン・ベートーヴェンはオペラ分野では大きな功績を残していませんが、モーツァルトは多数の人気オペラを輩出しています。
その中でも「フィガロの結婚」はもっとも人気のあるオペラの一つであり、序曲はコンサートで独立演奏されることが多いです。

最後に

クラシック音楽家として屈指の人気と知名度を誇るモーツァルト。彼が残した曲は現代では「α波」が出やすいリラックス効果のある曲として人気を高めています。

ただ、惜しまれるのは彼が時代の過渡期に生まれてしまったことです。
もし彼がもう少し遅く生まれていれば、フリーランスとして生計を容易に立てることが出来たのではないかと言われています。

無理な演奏旅行を行わなくとも名声を高めることもできたでしょうし、ウィーンにて貧困に喘ぐこともなかったでしょう。

もし、10年20年遅く生まれていたら。。

想像の域をでませんが、現代に伝わるモーツァルトとは一味違うモーツァルトを楽しめたかもしれませんね。

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