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ワルツ王 ヨハンシュトラウス2世の生涯と代表曲

 

ヨハン シュトラウス 2世

クラシック音楽史においてシュトラウスという名はよく聞きますが、とりわけ有名なのはヨハン・シュトラウス2世でしょう。

彼はヨハン・シュトラウス1世の長男として生まれ、生涯の殆どをワルツの作曲に捧げた作曲家です。

今回はそんなヨハン・シュトラウス2世の生涯と代表曲について解説していきます。

ヨハンはまさに「知っておかなければならない」大作曲家なので、是非ご一読ください。

ちなみにリヒャルト・シュトラウスはヨハン・シュトラウスとは関係ないので注意!

偉大な父との確執

音楽家ヨハン・シュトラウス1世の息子「ヨハンシュトラウス2世」はウィーンから数キロ南に位置するザンクト・ウルリッヒに生まれ、ウィンナ・ワルツの作曲家であった父に憧れ、幼少期から作曲家を志すようになります。

ただ、作曲家が不安定な職業であることを知っていた父はヨハンを音楽家にするつもりはなく、ピアノの練習以外を固く禁じていました。

ピアノだけ演奏を認めていた理由は、ピアノ演奏は市民の教養として日常的に行われていたからです。

とはいえ大作曲家の息子。

DNAによってインプットされた音楽への情熱を抑えることができず、祖父の家の小さな卓上ピアノにてワルツの作曲をスタート。

8歳のころには早くも才能の片りんを見せます。

ピアノ

しかし、そんな幼きヨハンの才能を「父」が阻害し始めるのです。

父ヨハンシュトラウス1世は、ヨハンが父に憧れて購入したヴァイオリンをなんと奪って破壊。これを機にもともと良くなかった関係性は更に悪化します。

さらに父は若い愛人に貢ぎ、実の嫁アンナと子であるヨハンに生活費を殆ど送らないというクズっぷりを発揮します。

所属していたシュトラウス楽団(父の独裁楽団)においても、コンサートマスターからヴァイオリンをひそかに学んでいたことがバレて解雇されるなど、ヨハンの幼少期は父によって成長を妨げられた日々でした。

現代でいう毒親ですね。。

父のライバルとしてウィーンデビュー

その後、青年となったヨハンは商学部に入学し、音楽とは関係ない道に一度は進みます。

しかし、結局作曲家になる夢を諦めることが出来ず、1842年に学校を退学。オルガン奏者ヨーゼフ・ドレクスラーに師事し、音楽の基礎を学びました。

音楽 基礎

そして1844年。

数年に渡る修行の日々を終え、遂にヨハンはウィーン シェーンブルン宮殿にて作曲家・指揮者デビューを果たします。

ヴァイオリンを演奏しながら指揮をする」という父譲りのパフォーマンススタイルをとり、初の公演は大成功。

偉大なる父と同じ「作曲家の世界」に足を踏み入れました。

ヨハン シュトラウス 2世

ただ、父とは和解をしたわけではなく、寧ろ父ヨハン1世は息子ヨハンの才能を恐れ、新聞社に中傷記事を書かかせようとするといった妨害工作にでます。

しかし、ヨハンもただ父に怯えるだけの存在ではありません。

独自の楽団を作ったり、父とは別の新聞社と契約を結び、中傷記事に応戦しました。

親子でありながらもライバルとなった2人のシュトラウスはその後もたびたび衝突を重ねますが、最終的には和解し、協力体制を築くようになったといわれています。

和解できた時間は余りにも短く、その後1849年に父ヨハン1世は死去しました。

一流作曲家へ

父が死去したことで、シュトラウス親子への仕事はヨハンに継がれます。

父が持っていた楽団はヨハンが引き継ぎ、この時期のヨハンはシュトラウス楽団を率いて舞踏場やレストランを演奏して回る生活が続きました。

この時期の代表的な作品は以下の通り。

『ミルテの花冠』
『皇帝フランツ・ヨーゼフ1世救命祝賀行進曲』

しかし、あまりにも多忙を極めたせいか、ヨハンは過労で倒れ、一時は生死を彷徨います。

その後一命を取り留めたヨハンは自身の負担を軽減するため、弟たちにも音楽家の道を歩ませ、兄弟で仕事を分担するようにしました。

これこそが、シュトラウス一族がクラシック界に台頭することになったキッカケです。

ロシアでの活躍

ヨハンの名声はウィーンに留まらず、世界的なモノとなります。

躍進のキッカケとなったのは1856年にロシアの鉄道会社との契約を結んだこと。

ロシア パヴロフスクにて開催された演奏会で大成功をおさめ、シュトラウス楽団は金銭的に大きく潤いました。

この時の報酬はウィーンでの報酬とは比べ物にならないほど高額だったといわれています。

その後ロシアにて高い名声を得たヨハンは「パヴロフスク宮殿」と親密な関係になり、1856年から1865年まで10年に渡って莫大な報酬を得ることになります。

パブロフスク宮殿 ヨハンシュトラウス

1862年にはヘンリエッテ・チャルベツキーと結婚。生涯の伴侶を得え、1867年にはパリ万博に出演。さらに同年にはイギリスへ演奏旅行も果たし、代表曲『美しく青きドナウ』を創り上げています。

魔の1870年とアメリカ公演

1870年。快進撃を続けたヨハンに悲劇が訪れます。

この年に母アンナ、弟ヨーゼフ、さらには叔母が次々と死去。精神的に不安定になり、全く作曲が手につかなくなります。

そんな折、妻ヘンリエッテはオペレッタの作曲をヨハンに勧め、ヨハンはこれを機にオペレッタ作曲家として今後は生きることを決意。

『ジプシー男爵』『ヴェネチアの一夜』『ウィーン気質』といった曲を作曲し、オペレッタ作曲家としても一躍有名となります。

ウィーン オペラハウス シュトラウス

また、1872年にはアメリカのボストンにて世界平和記念祭に指揮者として招かれ参加。アメリカ公演においてもヨハンは大成功を収め、以降ボストン・ニューヨークにてコンサートと舞踏会を中心に音楽活動を展開していきました。

ウィーンのみならず、ロシア・アメリカにおいても名声を欲しいままにしたヨハンはまさに音楽界の大スターです。

彼以上に成功を収め続けた作曲家はいないといっても過言ではないでしょう。

富と栄誉を欲しいままとした晩年

1894年には音楽家生活50周年を迎えたヨハンを讃え、祝賀行事が頻繁に行われるようになります。ウィーンの街の至る場所でシュトラウス家を祝賀する演奏が行われ、彼の功績が大々的に讃えられました。

ヨハンシュトラウス2世の人気はそれほどまでに絶大だったわけです。

今でこそヨハンシュトラウス2世は、クラシックにある程度詳しい人でなければあまり馴染みのない名ですが、当時の音楽では最高の評価を受けた人物として有名です。

ロマン派屈指の交響曲作曲家ブラームスからは「ベートーヴェンやシューベルトの血を付け継いだ真の作曲家」と評価され、圧倒的なカリスマ性を誇ったワーグナーですらも「自分には決して真似できないモノ」と称賛を送っています。

また、チャイコフスキーやリヒャルトシュトラウスもヨハンの影響を受けたと語っており、このエピソードからも同世代から憧れを持たれる存在であったことが伺えます。

音楽 憧れ

ただ、年老いたヨハンにとって音楽活動による体への負担は大きく、祝賀祭の僅か5年後にヨハンは肺炎のためこの世を去りました。享年75歳。

最後の最後まで圧倒的な人気を誇る作曲家として活躍した偉大なる人物だったと語り継がれています。

葬式には10万人の市民が参列したと言われており、ヨハンがどれほどまでに愛された作曲家だったのかが伺えます。

何故現代において知名度が低いのか?

間違いなくヨハンシュトラウス2世は当時のクラシック界において最強格の存在です。

ただ、悲しいことに「ワルツ」というジャンルが低俗なモノと扱われることが少なくなかったため、彼の評価は死後少しづつ過小評価を受けていきました。

また、当時絶大な人気を誇った「オペラレッタ」が現代においてあまり演奏される機会がないことも、ヨハンの知名度を下げた要因の一つとなっています。

ヨハンシュトラウス2世の女性遍歴

作曲家としてかなり高い評価を得ていたヨハンシュトラウス2世ですが、女性遍歴が多く、3人の女性と結婚したことも有名です。

女好きであったのは父譲りだったのでしょうか。

まず最初に結婚したのは11歳も年上のヘンリエッタ。豊富な財産を持ち、社交界でも花形的存在だったようで、金銭的にもヨハンをサポートしたようです。

ヘンリエッタとの生活は長く続きましたが、最後はヘンリエッタの容姿の衰えにヨハンが冷めてしまい、浮気を重ねた挙句、そのままヘンリエッタは死んでしまいます。

その後すぐに27歳年下のアンゲリカと結婚しますが、価値観が合わず、最後は老いぼれと呼ばれ、ヘンリエッタの時とは逆に浮気をされ離婚。

3人目の妻でも懲りずに26歳のアギーレと結婚しますが、過去の過ちの教訓からか今回は無事幸せな結婚生活を送れたようです。

アギーレとの結婚の際には国籍と宗教まで変えてしまうほどヨハンはアギーレに入れ込んでいたという記録が残されています。

ヨハンシュトラウス2世の代表曲

ヨハンシュトラウス2世の代表曲はワルツの王と呼ばれるだけありワルツに集中しています。オペラ分野でも大きな功績を残しましたが、現代において演奏されるのは管弦楽曲が多いです。

ワルツ 美しく青きドナウ Op. 314

美しく青きドナウはワルツの代名詞的な作品として、そしてヨハンシュトラウス2世の絶対的な代表曲として知られる一曲です。

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のニューイヤーコンサートでアンコール曲としてよく演奏されます。

ワルツ 春の声 Op. 410

3度目の結婚をした際に書かれたとされる「春の声」は、明るい春を迎えた喜びを美しい旋律で表現した流麗な作品です。

作曲当初は声楽付きの曲であったとされていますが、現在は純粋なオーケストラ曲として演奏されることが大半となっています。

ワルツ 皇帝円舞曲 Op. 437

煌びやかな印象を与えるヨハンシュトラウス2世屈指の名曲。ウィーン・フィルのニューイヤーコンサートにて必ずといって良いほど演奏される人気作です。

ワルツ「南国のバラ」

自らが作曲したオペレッタ『女王のレースのハンカチーフ』を編曲した作品。イタリア国王ウンベルト1世に献呈した作品といわれており、南国イタリアをモチーフとしてタイトルが名付けられました。

最後に

クラシックにあまり興味の無い人にはヨハンシュトラウス2世って誰?と思う方もいるでしょう。

しかし彼はロマン派屈指の作曲家であり、ウィーンを始め世界中で愛された作曲家です。

ワルツ王として現在も人気を博していますので、クラシックを勉強したいという方は代表曲だけでも聴いてみてください。

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