クラシック音楽はバロック時代〜古典派〜ロマン派〜民族楽派といった時代の変遷をへて進化してきましたが、その先にあるのが「無調」の音楽です。
無調への流れは後期ロマン派の終盤から現れ、これまでの音楽の基本であった機能性和声が次第に失われていきました。
このブログではクラシック音楽家について度々取り上げていますが、今回の記事ではその執着点として「無調音楽」について触れていきます。
無調音楽とは?
私たちが良く聞く音楽は基本的に「長調12調」・「短調12調」の計24調によって成り立っていて、これらの調の中で転調したり、違う調の音を一時的に借りてきたりして、曲が作られます。
また、それぞれの調には主音・属音と呼ばれる役割を持つ音があり、それをうまく使うことで誰が聴いても気持ちのよい曲に仕上げられています。(カデンツァと呼ばれる)
しかし、無調音楽は調性の基本的ルールをとっぱらった曲の成り立ちをしておりで、調性感がありません。
楽曲に安定がないため、聴いていると大半の人が「不安定な気分」になります。
ただ、音楽の好みは不思議なのモノで、この不安定さが良いと感じる人もいます。
そのような人は調性音楽に飽きてしまった人達が多く、無調の刺激感を心地よく感じるようになったらしいです。
「私自身は無調を心地よく感じるタイプではなく、どちらかというと苦手意識を持つ人間であるため、無調の良さは分かりません。それでも気持ちいい人が聴くと気持ち良いらしいです。」
無調音楽の発端
クラシック音楽が無調に突入し始めたのは、ロマン派の後期です。
諸説ありますが、ワーグナーが不協和音を解決しないトリスタン和音を取り入れたころから無調への流れが始まり、「民族旋法・教会旋法」といった長短調24調以外の旋法の導入、半音階的和声法の結合(フォーレ・グリークなどが使用)を通り、ドビュッシー/リストら行った調性崩壊へと歴史は進んでいきました。
調性崩壊へ音楽が進んでいった理由ですが、それは当時の作曲家が「調性音楽」に限界を感じてしまったからです。
当時はロックもポップスもジャズも存在しない時代です。古典派音楽はベートーヴェンで頂点を迎え、ロマン派音楽もネタ切れ感が否めなくなってきたとなると、新しい技法を編み出すしかありません。
そこで作曲家たちが試行錯誤した結果、だんだんと無調へと時代が向かっていったわけです。
また、無調への流れを作ったワーグナーが強力なカリスマ性を持っていたことも無調へ進んだ大きな要因だといえます。
シェーンベルクの登場
無調化が進んでいったとはいえ、ワーグナー・ドビュッシー・リスト・フォーレらの曲はまだギリギリ調性感が残っていました。
しかし、この流れを昇華し「完全なる無調の世界」へといざなった人物がいます。
それこそが、オーストリアの作曲家 アルノルト・シェーンベルクです。
シェーンベルクは、革新的なワーグナーと保守的なブラームスの音楽性をうまく織り交ぜて作曲活動を続けていましたが、次第にワーグナーの調性崩壊を流れを表現に取り入れるようになり、やがてオクターヴ内の12の音を均等に使用することにより「調の束縛」を離れようとする技法「十二音技法」に到達します。
十二音技法を語り始めるとキリが無いうえに、私自身も専門外なので多くは語れません。なので、取り合えず動画で音を確認してみてください。
こんな感じの曲が十二音技法を駆使して作られた曲です。
シェーンベルクは時期によって調性がどのくらい残っていたか異なりますが、この『6つの小さなピアノ曲』op. 19においては完全に調性を放棄するに至ったという見解をうけています。
無調から近代音楽へ
「いつから近代音楽が始まったのか」「いつまでが後期ロマン派であるのか」については様々な考え方がありますが、私は調性感が完全になくなった時期=近代音楽に入っていると考えています。
つまり、シェーンベルクが十二音技法を創り上げた時期くらいからが近代音楽です。(少なくとも私の中では)
またこの時期はドイツ語圏以外の各国でも近代音楽へ流れが加速し、調性音楽を作る作曲家と無調中心の作曲家が入り乱れることとなります。
ドイツ語圏で近代音楽への流れ
十二音技法を創り上げたシェーンベルクは弟子の「ウェーベルン」「ベルク」と共に新ウィーン楽派と呼ばれ、20世紀初期のウィーンにおいて他の作曲家に多大なる影響を与えるようになりました。
最初は無調音楽に否定的だった聴衆も耳が慣れたのが次第に肯定的になり、やがてシェーンベルクはベルリン・プロイセン芸術アカデミー作曲科マイスター・クラス教授にまで上り詰めます。
この時点で無調音楽は概ね市民権を得たといっても良いでしょう。
ただ、その後世界大戦の時代に入り「ヒトラー」が政権を取ると、ユダヤ系の人種であったシェーンベルグは迫害を受けるようになり、最終的にはボストンにあるモールキン音楽学校で教員となるためにアメリカへ亡命します。
そして亡命後はアメリアの作曲家として作曲活動を続けながら、4分33秒で有名な「ジョン・ケージ」や「ルー・ハリソン」といったアメリカ現代音楽を代表する作曲家を育てました。
シェーンベルクが近代音楽史において重要視されている理由は、ウィーンで無調の流れを作った後、アメリカでも無調音楽(現代音楽)の発展に貢献したからです。
20世紀に入るとアメリカからあらゆる音楽が誕生し、音楽の主流が欧州からアメリカへと移りますが、シェーンベルクはその流れに間違いなく関与した1人だといえるでしょう。
フランスでの近代音楽への流れ
ドイツやオーストリアではシェーンベルクを中心とする新ウィーン学派が近代音楽への道を切り開きましたが、フランスではこの役割をドビュッシーやサティが担いました。
ドビュッシーは若いころは「月の光」「アラベスク」といったフランス和声を駆使した美しい楽曲を残していますが、キャリアの後半はかなり無調に近い近代音楽を残し、後続のフランス作曲家に大きな影響を与えました。
また、サティは「拍子記号・小節線・縦線・終止線」を廃止したあたらなる音楽性を確立し、実験音楽・ミニマルミュージックなどの礎を築きます。
まさにフランス近代音楽への幕開けを行った人物です。
その他の国における近代音楽への流れ
近代音楽に大きく進んだのは「ドイツ・オーストリア」「フランス」「アメリカ」ですが、他の国でも少しづつ近代音楽への流れが進みます。
イタリア:オペラ中心の国であったため、近代音楽への流れはあまり進みませんでした。強いて言うならプッチーニがイタリア印象主義音楽の先駆者となり、ダラピッコラによってイタリアにおける最初期の十二音技法の試行されています。
北欧:近代音楽への流れは盛んではなく、有名な近代作曲家は殆ど輩出していません。ノルウェーのヴァーレンは「北欧のシェーンベルク」などとも呼ばれたようですが、現代においては全くの無名です。
東欧:ドイツやオーストリアほどではありませんが、東欧でも近代音楽への流れが進み、ハンガリーのバルトーク、チェコのヤナーチェクが新たなる時代を築く重要な作曲家となりました。また、どちらも民族的な音楽も重点においていたことが特徴です。
イギリス:ヴォーン・ウィリアムズ、ホルスト、ディーリアスといった「イギリス印象派」と呼ばれる作曲家が現れますが、完全に近代的な作風だったのはウォルトンのみで、あまり近代音楽は盛んではありません。
ロシア:ロシアからはスクリャービン、ストラヴィンスキー、プロコフィエフ、ハチャトゥリアンといった作曲家が近代作曲家として活躍しました。
スクリャービンは後期においては無調へ到達し、ストラヴィンスキーは名作「火の鳥」を残しています。ソ連という一筋縄ではいかない国で活動していたため、他の国とは若干異なる音楽事情を抱えていたことも特徴的です。
最後に
クラシック音楽は常に進化が求められる音楽であり、歴代の作曲家たちはそれに答える形で新しい音楽の形を模索してきました。
そしてたどり着いた答えが「無調」だったのです。
シェーンベルク以降の音楽家でも従来の調性音楽を基本とする音楽を作曲する者は少なからずいましたが、ジャズ・ポップス・映画音楽といったジャンルの誕生と共に、クラシック音楽という概念そのものがボヤけていきました。
結局のところ、私たちが一般的に連想するクラシック音楽というジャンルは「無調」に到達した時点で一区切りされたと思っても良いでしょう。(専門的に突っ込むといろいろあるでしょうが)