
西洋クラシック音楽史は大きく分けるとバロック・古典派・ロマン派・近代音楽に分類されます。
それ以前の音楽はルネサンス音楽、それ以降の音楽は現代音楽と呼ばれますが、一般的にクラシック音楽として認知されているのは「バロック〜近代音楽」の時代において作曲された曲です。
この記事ではバロックに活躍した、これだけは抑えておきたいクラシック作曲家を年代別に一覧にしてみました。
クラシックを専門としない弦楽器製作家や演奏家、さらには作曲をされている方。この機会にクラシック作曲家について一緒に勉強してみませんか?
バロック時代の特徴と作曲家
バロック時代は17世紀初頭から18世紀半ばまでの音楽の総称です。王が絶対的な権力を行使していた時代に作られた音楽で、宗教音楽やオルガン・チェンバロ用の鍵盤音楽、室内楽曲を中心に対位法音楽が発展しました。
バロック時代に流行った音楽ジャンルは「オペラ」中心に「カンタータ」「オラトリオ」「受難曲」など。
この時代に活躍した代表的な作曲家といえばバッハ・ヘンデル・ヴィヴァルディが有名ですが、楽器そのものが発展した時代であることも見逃せないポイントです。

また、バロック時代の音楽の特徴として、「対位法」と「通奏低音」が挙げられます。
現代の音楽は和声の進行によって曲が成り立っています。所謂ホモフォニーと呼ばれる音の仕組みであり、一番上にメロディーがあって、その下に和音が重なる音楽です。
最たる例はキーボードのコード弾きであり、左手でCのコード(ド・ミ・ソの和音)右手でメロディーといった感じ。
対してバロック時代の音楽は対位法が主流です。
ホモフォニーは同時に音が連なる垂直構造ですが、対位法音楽であるポリフォニーはメロディーがメロディーに次々と覆いかぶさってくる水平構造となっています。
小学校や中学校の時に歌った合唱曲でメロディーの少し後から入っているパートがありませんでしたか?
あれも一種の対位法であり、複数の旋律がそれぞれの独立性を保ちつつ互いによく調和しています。
合唱曲は和音があるホモフォニー音楽に一部ポリフォニー要素を含んだ音楽ですが、バロック時代の音楽は後追いパートの連続で構成されているポリフォニーのみで作られる曲も多く、特に宗教曲には度々このポリフォニー音楽が用いられました。

通奏低音は低音部の旋律と番号のみが示された楽譜を見ながら、その低音に適切な和音を付けて演奏する伴奏形態です。現代でいうコードネームのようなもので、この音と番号が使われたらこの和音を付けるといった感じに演奏が進みました。
全てが楽譜に記される古典派以降のクラシックとは異なり、即興演奏の色合いが強めだったことも特徴的です。
バロックという言葉の由来
バロック芸術はルネサンス芸術の後に始まった芸術運動であり、ヨーロッパ諸国の絶対王政を背景に、ルネサンスとは異なる発展を見せました。
この芸術運動が行われた時期に作られたのが音楽こそが「バロック音楽」というわけです。
バロック美術・バロック絵画・バロック彫刻といった言葉も存在しますが、一番有名なのは音楽だと思います。

バロックという言葉の由来
当時の芸術家は「俺たちの芸術はバロックだ!」などと言ってる人はいなかったわけで、自分達のことを古典主義であると考えていました。
しかし、この芸術運動が始まったばかりのころは「比喩的な意味で、いびつ、奇妙、不規則」といった決してポジティブではない意見が飛び交い、やがてポルトガル語で歪んだ真珠という意味を持つバロックという言葉が定着したといわれています。
ただ、次第にバロック芸術の評価は見直され、現在では「自由な感動表現、動的で量感あふれる装飾形式」を特色とした芸術様式という侮蔑ではない評価に見直されています。
バロック時代の音楽は教会と貴族の為にあった
バロック時代は貴族が大きな力を持つ貴族社会の時代です。この時代の貴族は毎日のように宮殿にて祝典を開き、音楽を楽しんでいました。
所謂富裕層の嗜みというやつですね。
また、この時代の作曲家は貴族もしくは教会のミサの為に曲を書くのが当然です。各々の感性を生かした楽曲ではなく、クライアントの依頼に応えて曲を雇われ作曲家として活動をしていました。

ちなみにバロック時代の作曲家は皆カツラを被っていますが、被っている理由はカツラを装着しないと正装と見なされなかったからです。
現代でいう営業がスーツを着るようなもので、貴族社会であったバロック時代では「カツラ」を被らなければ無礼者と見なされました。バッハ・ヘンデル・ヴィヴァルディがカツラを被っているのはこのような理由があるからなのです。
バロック時代の作曲家① アントニオ・ヴィヴァルディ(1678〜1741)

ヴィヴァルディは貴族でもなければ、裕福でもない一般的な家庭の出身の作曲家です。
10歳の時に教会付属学校に入学、そこで聖職者を目指しつつヴァイオリンの腕を上げていきます。
当時のヨーロッパはコネ社会であり、スポンサーがいなければ音楽家は成り立たない世界でした。
この時代の音楽は宗教音楽、つまり教会との関係が深かったため、聖職者になれば「コネ」を作れるというヴィヴァルディ家の判断で教会学校への道を選んだとも言われています。
ヴィヴァルディは聖職者として階級を徐々に上げていき、20歳には責任のある地位まで登りつめました。ただ、ヴィヴァルディは喘息持ちで体が弱かったため、「在俗司祭」として聖職に携わることになりました。
その後、ヴィヴァルディはキリスト教の孤児院で音楽院教師になり、同時に作曲も精力的に行いました。
教師を続けながら、「器楽曲」から「声楽」にいたる幅広い分野の作品を世に残し、特に自らが操るヴァイオリンを使用した「ヴァイオリン協奏曲」は最も得意としたジャンルとして数々の名曲を残しました。
ヴィヴァルディの作曲活動は徐々に認められ、才能を開花させたヴィヴァルディの楽曲は次第にヨーロッパ各地から演奏興行オファーがくるほどの知名度になっていきます。その後、作曲家として成功したヴィヴァルディは音楽院教師としてではなく、作曲家としてヨーロッパの各都市を演奏旅行します。
1723年から1724年にかけてはイタリア・ローマを訪れ、同地で3曲のオペラを上演しました。ローマ教皇の御前で演奏した文献もあり、当時のヴィヴァルディがいかに人気のある作曲家だったのかが伺えます。さらに1725年には再びローマ・サンタンジェロ劇場の作曲家兼興行主となり、1739年まで断続的に興行を行いました。
イタリア・本土で高い人気を誇ったヴィヴァルディは更なる成功を求め、オーストリア・ウィーンにて興行を目指します。しかし、1番の理解者で有力なパトロンだったカール6世が逝去したことで状況は一変。かなりの資金をつぎ込み、挑戦した「ウィーンでの興行」はカール6世の逝去に伴い、全面中止となってしまいます。
演奏旅行による身体的な負担に加え、ウィーンでの興行ができなくなったことによる心労はヴィヴァルディを蝕みました。そして、ウィーンの劇場にあった作曲家用の宿舎で63歳で突然亡くなってしまっています。
もともと体が弱かったこともあり、内臓を病んでいたともいわれています。
バロック時代の作曲家② ヨハン・セバスティアン・バッハ(1685〜1750)

バッハのフルネームは「ヨハン・ゼバスティアン・バッハ」主に17世紀のドイツで活躍した作曲家兼演奏家です。1685年にドイツ・アイゼナッハに音楽一家の8男として生まれたバッハは、町の楽師であった父に音楽の英才教育を受けながら育ちました。
また、伯父も有名な音楽家であったため、バッハは伯父からはオルガンを習い、どんどん腕前を上げていきました。
バッハが9歳のとき母親が亡くなり、さらには父親が10歳の時に亡くなったことで、バッハは兄の元にひきとられます。そんな逆境の中、優れた音楽家であった兄の元でバッハはさらに音楽に親しみ、才能を磨き続けました。
その後バッハは教会の修道院付属学校に入学、18歳の時にはアルンシュタット新教会のオルガニストとして就職を果たします。何年か職務を果たした後、「ミュールハウゼン」のいう街に移り住み、再び教会のオルガニストととして就職します。

バッハの生きた時代は現在のピアノは存在せず、バッハは「パイプオルガン」「チェンバロ」「クラヴィコード」を主に演奏楽器として扱っていました。したがってバッハの鍵盤作品は、この3つの楽器のいずれかで演奏するために書かれたということになります。
写真の楽器は「クラヴィコード」。鍵盤楽器の一種であり、14世紀頃に発明されました。主に現在のピアノができる前に使用されていた鍵盤楽器で、オルガンやチェンバロなどと並行して”16世紀から18世紀”に広く使用された楽器です。
移り住んだ「ミュールハウゼン」でバッハはマリア・バルバラという親戚の娘と結婚。その1年後にはワイマールという新天地で宮廷オルガニストという教会オルガニストの上位職にスキルアップを果たし、オルガニストとしての名声を上げていきました。また、その頃には作曲活動も盛んに行い、多くのオルガン曲を残しました。

バッハの性格は非常に真面目。音楽に対する情熱は並ならぬものであり、努力によって高い地位に登りつめました。しかし、その真面目さ故に、他人と衝突することもしばしばあったと言われています。
ワイマールにて宮廷オルガニストとなってからは「楽師長」の任につきます。
10年ほどワイマールの地で仕事を続けたバッハですが、宮廷楽長が亡くなった時、宮廷楽長の後継者に自分が選ばれなかったことに腹を立て、ワイマールを去ります。(他人と上手に関係を築くのが下手だったのが原因の一つ)
晩年に移り住んだのはケーテンという街。この地でワイマールでなり損ねた「宮廷楽長」の地位に就きます。また、ケーテンではオルガン曲や教会音楽の作曲・演奏以外の楽器や曲も多く扱い、音楽家として成熟していきました。
ケーテンでの生活を気に入っていたバッハですが、妻マリアが死んでしまい、さらにはバッハが「アンナ・マグダレーナ」と再婚をしたことなどの理由により、バッハ最後の居住地「ライプツィッヒ」へ移住します。

大都市ライプチヒでは「教会の音楽監督」という”かなり位の高い地位”に就任しました。この地位は事実上の市音楽監督にあたり、バッハはライプチヒの音楽の全てを任され、その手腕を発揮。相変わらず頑固な性格は健在で、度々他人と衝突することもありましたが、バッハはこの地で死ぬまでの27年間を過ごし、数多くの代表作を生み出し続けました。
最後は目の病により視力が低下、さらには手術にも失敗したことで失明し、その翌年の1750年に生涯を終えました。ちなみに同時代の作曲家ヘンデルも同じ医者にかかったことで失明しているので、この医者はヤブ医者だったとも言われてます。
バロック時代の作曲家③ ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(1685~1759)

ヘンデルは1685年に生まれたバロック時代の作曲家です。正式名称は「ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル」といいます。この時代の作曲家はドイツもしくはオーストリアで活躍した人物が多いイメージですが、ヘンデルはキャリアの大半をイギリスで過ごしたイギリスの作曲家です。
同時期に音楽の父と呼ばれるバッハがいたことから、ヘンデルは「音楽の母」という呼び名が与えられています。バッハの音楽がガッチガッチの理論武装をした教会音楽であったのに対し、ヘンデルの音楽はメロディアスな音楽だったことが「バッハ=父、ヘンデル=母」というイメージにつながったのでしょう。
ただ、音楽の母という名は日本人がヘンデルをバッハと対等の存在として位置付けるために作った言葉であるため、諸外国ではこれらの呼び名は存在しません。
ヘンデルの音楽スタイルはオペラなどの劇場用の音楽。現代でいう映画やゲームの劇伴作曲家といえます。オルガン曲・宗教音楽をメインに作曲したバッハに対し、ヘンデルはオラトリオ・管弦楽曲・オペラ作品をメインに作曲活動に励みました。
ハレルヤコーラスや水上の音楽など、ヘンデルには数々の名曲がありますが、そのどれもメロディアスな旋律が印象に残ります。
ヘンデルはドイツのハレという街でバッハが生まれた年(1685年)に生まれました。音楽一家の生まれではなかったヘンデルは大学で法律を学びますが、音楽への情熱を捨てきれずに両親の反対を押し切って音楽への道に進みます。
キャリアのスタートはドイツ・ハンブルク。当時のドイツで名を馳せていた理論家:マッテゾンに師事し、作曲を学びます。1705年には初めてのオペラを作り上げ、非凡な才能の片鱗を見せます。
1706年にはイタリアに渡り、当時の最先端音楽ジャンルであったオペラ曲を多数作り上げました。1712年にはロンドンに移り住み、1727年にはイギリスに帰化。ドイツで活躍したバッハとは対照的に、ヘンデルは3カ国をわたり歩いたため、ドイツ語・イタリア語・英語といった多言語を操ることができます。
ロンドンでは前期はオペラ、後期はオラトリオ・声楽曲を中心に作曲し、オペラでは「アリオダンテ」「忠実な羊飼い」、オラトリオでは「アレキサンダーの饗宴」「メサイア」といった代表作を生み出しました。
ヘンデルの曲はエンターテイメント色の強いものが多く、当時の音楽界としては実に華やかな活躍をした人物といえるでしょう。
晩年は眼病との戦いに苦しみます。1751年から視力が減退し、眼科医”ジョン・テイラー”の手術を受けますが1752年には視力を失いました。ちなみに、この眼科医はバッハを結果的に失明させた眼科医であり、大作曲家2名を失明させたヤブ医者として後世に語り継がれています。
失明後は即興音楽家として活躍しますが、1759年4月14日にその生涯を終えました。
まとめ
ヴィヴァルディ、バッハ、ヘンデル。バロック時代の作曲家としては、この3名が有名です。
バロック時代には数多く作曲家が生まれましたが、ヴィヴァルディ、バッハ、ヘンデルの知名度は群を抜いています。
現代においても演奏される頻度が高く、世代を超えて支持を集めています。
クラシック初心者であれば、まずはヴィヴァルディ、バッハ、ヘンデルについて深く知るところから始めてみると良いと思います。