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古典派時代を生きた作曲家の特徴や生涯を年代別に解説

古典派時代 作曲家の特徴と生涯

西洋クラシック音楽史は大きく分けるとバロック・古典派・ロマン派・近代音楽に分類されます。

それ以前の音楽はルネサンス音楽、それ以降の音楽は現代音楽と呼ばれますが、一般的にクラシック音楽として認知されているのは「バロック〜近代音楽」の時代において作曲された曲です。

この記事では古典派時代に活躍した、これだけは抑えておきたいクラシック作曲家を年代別に一覧にしてみました。

クラシックを専門としない弦楽器製作家や演奏家、さらには作曲をされている方。この機会にクラシック作曲家について一緒に勉強してみませんか?

目次

古典派時代の作曲家

貴族 古典派音楽

クラシック音楽史における古典派とは一般的にバッハがこの世を去った1750年からベートーヴェンが亡くなる1827年までを指します。

古典派の時代ではフランス革命をキッカケに貴族のための音楽から市民のための音楽へ脱却が始まりました。それと同時に様々な形式が確立した時代でもあり、古典派の音楽はかなり「形式」が重要視された音楽といえます。

ヨーゼフ・ハイドン(1732〜1809)

ハイドン クラシック作曲家

古典派の大御所「ハイドン」。

貴族御用達の作曲家として活躍し、交響曲・弦楽曲を中心に1000曲以上の曲を作り上げました。

代表曲はドイツ国歌としても知られる「皇帝」、優雅な「ロンドン」など。

CMやドラマであまり曲が流れないせいか、やや地味な印象がある作曲家ではありますが、弦楽器奏者としては極めて重要な作曲家です。

ハイドンはオーストリア出身の作曲家。ハンガリーとの国境にあるニーダーエスターライヒ州ローラウ村にて生まれ育ちました。
類まれな才能を持っていた彼は6歳の時に本格的な音楽の勉強を開始し、8歳の時に聖シュテファン大聖堂聖歌隊監督ゲオルク・フォン・ロイターによって音楽の都ウィーンに迎えられます。
彼がスカウトされた要因はその「歌声」。
ハイドンといえば交響曲のイメージが強いですが、彼のキャリアは聖歌隊員としてスタートすることとなります。

聖歌隊

ハイドンは聖歌隊の一員としてハイドン約9年間働き、その間にラテン語や一般教養、さらに音楽教育を施されます。この音楽教育にはチェンバロやヴァイオリンといった定番楽器の奏法も含まれており、ハイドンはこの時期に作曲家となるための大きな財産を得ます。
ただ、聖歌隊では作曲のカリキュラムは組まれていなかったため、作曲に関しては当時はまだ素人だったそうです。

聖歌隊として活躍したハイドンですが、やがて聖歌隊を去る時が来ました。
そう、変声期が来てしまったのです。

変声期がきても上手くキャリアを伸ばせる人もいますが、ハイドンは残念ながらそうはならず、高音域が歌えないことに拠り解雇。
若くして仕事を失うことになったハイドンは途方にくれましたが、演奏家ではなくフリーの作曲家に転身し新たな一歩を踏み出します。

弦楽四重奏 ハイドン

フリーの作曲家として成功するため、ハイドンは作曲理論や奏法について猛勉強し、弦楽四重奏やオペラを中心に名声を高めていきます。
彼の作風はこのころから徐々に定まっていったようです。

フリー転身から約10年がたった1759年のこと、実力を認めてくれたカール・モルツィン伯の宮廷楽長の職に定着したことで、ハイドンはフリーの作曲家から勤め人となります。
この時代では小オペラの指導や弦楽アンサンブル曲、交響曲の作曲に携わり、長所を伸ばし着々とキャリアを重ねていきます。
しかし、僅か一年余りでモルツィン伯の経済面が苦しくなり、ハイドンは折角就いた宮廷楽長のスグに失うことになります。

とはいっても、実力さえあれば次の仕事が容易く見つかるのは今も昔も同じこと。1761年には有名貴族エステルハージ家の副楽長に就任(すぐに楽長に昇進)します。

今度の職場は福利厚生が整った云わば大企業。
エステルハージ家当主ニコラウス・エステルハージ侯爵が音楽がハイドンの良き理解者であったこともあり、貴族御用達の作曲家として約30年間務めあげることとなりました。

また、ニコラウス・エステルハージ侯爵は作曲家として最高の環境を発揮させるために、専属の小オーケストラを毎日貸していたという逸話があります。

このような恵まれた環境があったからこそ、ハイドンは交響曲という難しいジャンルの曲を量産できたともいえます。

ハイドン 大豪邸

確固たる実力を身に着けたハイドンは海外からの人気も博すようになり、エステルハージ家の仕事以外の作曲にも携わるようになります。
この時期のハイドンは交響曲や弦楽曲を中心に膨大な数の曲を残しており、各地のその名声を轟かせました。

エステルハージ家に勤めてから30年余りが過ぎたころ、遂に当主ニコラウス・エステルハージ侯爵がこの世を去ります。跡継ぎとしてアントン・エステルハージ侯爵が就任しましたが、この侯爵は音楽に興味のないハイドンにとって最悪の人物でした。
全く音楽に興味がないということは、ハイドンの活動なんてどうでもいいわけであり、就任後まもなく「君、定年退職」と言われ、ハイドンはエステルハージ家での仕事に終止符を打たれます。

ただ、エステルハージ家は現代の大企業。首ではなく定年退職なため、年金が貰えます。
そのため、ハイドンは安定した基盤の中で作曲活動を行いながら余生を過ごしました。

ハイドンは1791年〜1795年の間(1793年は除く)、音楽関係の興行主ヨハン・ペーター・ザーロモンによるイギリスでの交響曲演奏プロジェクトに参加。
「パリ交響曲Hob.1-82~87」「十字架上のキリストの最後の7つの言葉Hob.20-2」といった名曲を発表し、名声を得ます。

その後ハイドンは再びウィーンに戻り、イギリスでの成功によって稼いだ資産を元に豪邸を建設。年金+贅沢な資金による貧困とは無縁の創作セカンドライフをエンジョイします。

1792年にはベートーヴェンがハイドンの元を訪ねたことをキッカケに、彼を弟子として約2年ほど指導に当たります。
1796年からは再びエステルハージ家にて貴族御用達の作曲家として活躍。(音楽好きな侯爵に変わったため)晩年においても数々の名作を残しました。

定年後も精力的に創作活動を行ってきたハイドンですが、60歳を超えたあたりから次第に体力が衰えていき、1802年には殆ど作曲が出来ないほど持病を悪化させます。そして、4年後の1806年にハイドン(77歳)はこの世を去りました。

晩年は病を抱えた日々となりましたが、最後まで恵まれた環境の中で創作活動に打ち込めた幸せな作曲人生であったことは言うまでもありません。

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756〜1791)

モーツァルト クラシック作曲家

クラシック音楽家屈指の天才「モーツァルト」。

管弦楽曲、オペラ、ピアノ曲といった多岐にわたる分野において大きな功績を残し、現代においても揺るぎない人気を誇る作曲家です。

代表曲は「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」「トルコ行進曲」「フィガロの結婚 序曲」「レクイエム」など。

モーツァルトが残した曲は「α波」が出やすいリラックス効果のある曲として人気を高めています。

モーツァルト 幼少期

モーツァルトは1756年に七番目の末っ子としてヴォルフガング家に生まれ、ザルツブルクの宮廷作曲家であった父レオポルトのもと、音楽の英才教育を受けた経歴を持つ人物です。
3歳からチェンバロを弾き始め、5歳から早くも作曲を開始していたことから、早熟だったことが伺えます。

息子が天才であり神童であるだと確信した父はモーツァルトの演奏をヨーロッパ中に披露するため(自身の就職活動の兼ね)、親子でウィーン・パリ・ロンドンといった大都市への演奏旅行を開始。

モーツァルトは父の期待に答え、王宮や貴族相手にその実力をいかんなく発揮し、10歳にも満たぬ時期から大きな名声を博します。

常軌を逸した耳の良さ。即興能力。
下書きをしない天才とも称された記憶力。

モーツァルトの能力の高さはクラシック音楽家最強とまで称されています。

その実力は7歳のモーツァルトの演奏を聴いた作家ゲーテが「いずれ音楽界のシェイクスピアとなる存在」と唸らせるほどでした。

ゲーテ モーツァルト

11歳〜13歳の時期においてはイタリアの大都市を巡り、1770年(14歳)にしてローマ教皇より黄金拍車勲章を授与されます。

また、ボローニャにおいては音楽教師であったジョバンニ・バッティスタ・マルティーニ神父から対位法や和声の技術を学び、音楽性の幅を広げました。

イタリアでの活動は17歳まで続き、以下のような名曲にて大好評を博したと記録が残っています。

■初のオペラ『ポントの王ミトリダーテ』K. 87
■セレナード『アルバのアスカニオ』K.111
■オペラ『ルーチョ・シッラ』K. 135

その後も父レオポルトとモーツァルトの演奏旅行は続き、17歳〜19歳においては2回にも及ぶウィーン旅行を実施。オペラ『偽の女庭師』K. 196上演といった作品を残しました。

このように、幼少期〜青年期にかけてのモーツァルトは演奏旅行において各地を旅しながら音楽性を磨くサーカス団員のような生活を送り続けます。

ただ、長きにわたる演奏旅行が成功したのは天才的な音楽センスを持つモーツァルトだからこその事であり、常人であれば絶対に不可能であったことでしょう。

演奏旅行をひと段落させたモーツァルト(21歳)は拠点をザルツブルクからミュンヘン→マンハイム→パリへと移し音楽活動を展開します。

この時期のモーツァルトはやたら恋愛に力を注いでおり、父・レオポルトの弟の娘「マリア」や「アロイジア・ヴェーバー」といった女性に恋をしますが、いずれも上手くいかず、パリに出向いてからは受け入れ先のシャボー公爵夫人から嫌がらせを受ける、同行していた母が亡くなるという悲劇に見舞われます。

結局23歳の頃にザルツブルグへと戻りますが、そこでも雇用主であったザルツブルク大司教 コロレドと揉め、最終的には25歳でウィーンに定住します。

モーツァルトは35歳という若さでこの世を去った人物ですが、そのうちの約4年間を移住の繰り返しで過ごしたことは音楽史からみると非常に悔やまれます。

25歳から死去する35歳までの時期はモーツァルトの晩年に当たり、様々な名曲が生まれました。

ただ、当時の音楽界は貴族への音楽から民衆の為の音楽へと向かっていた過渡期であり、どうしても高給な仕事を取るのが困難でした。

そのため、華やかなイメージのあるモーツァルトですが、晩年は貧困に喘ぎます。

また、モーツアルトの才能を恐れていた宮廷楽長アントニオ・サリエリを中心とする貴族たちに演奏会を妨害され、思うように収入を得ることが出来なかったという説も残っています。

晩年のモーツァルトが残した主な曲

1785年 弦楽四重奏曲集『ハイドン・セット』
1786年 オペラ『フィガロの結婚』K. 492
1787年 オペラ『ドン・ジョヴァンニ』K. 527
1790年 オペラ 『コジ・ファン・トゥッテ
1790年 ピアノ協奏曲26番ニ長調 K. 537「戴冠式」
1791年 ピアノ協奏曲第27番 K. 595
1791年 ジングシュピール 『魔笛』 K. 620

晩年のモーツァルトは経済的に恵まれず、苦しい時期を過ごしましたが、輩出した曲は後世に残る名曲ばかりです。

特にオペラ分野に関してはフィガロの結婚・魔笛といった古典派を代表する名曲を残し、天才と呼ばれる実力をいかんなく発揮しています。

しかし、貧困の影響から徐々に体調を崩し、レクイエム K.626の作曲に着手した直後の1791年12月5日に35歳という若さでこの世を去りました。

死因は全身の浮腫と高熱を引き起こす「リューマチ性炎症熱」と言われていますが、サリエリによる毒殺説も浮上し、当時の音楽界において大きな物議を醸しました。

モーツァルトの死にはミステリアスな部分が多く、1984年には毒殺説を題材とした映画「アマデウス」が公開されるなど、未だに様々な考えが残っています。
ただ、現代では毒殺説はほぼ否定されており、リューマチ性炎症熱による死であったことがほぼオフィシャルな見解となっています。

モーツァルトの作品はその殆どが長調であり、軽やかで優雅な曲調が多数を占めます。ただ、これはモーツァルトが作りたい音楽だったわけではなく、時代背景から「優雅な曲」を作らざるを得ない状況だったのです。

というのも、モーツァルトの時代は少し後のベートーヴェンの時代とは異なり、フリーランス音楽家として生きていくことが非常に困難な時代でした。

そのため、この時代の作曲家は有権者や貴族に仕えることが通例だったわけです。

「オリジナルな曲を書こうなんて、これっぽっちも考えたことはない」

これはモーツァルトが残した名言です。この言葉から彼は商業音楽に徹した人物であるということがわかります。

長調の曲が多いのは、モーツァルトに依頼される曲に「優雅さ」が求められていたからに他なりません。

ちなみに晩年に作られた曲の雰囲気がこれまでと若干異なる理由は、31歳の時に父が亡くなり、依頼によって書くのではなく、自分の書きたい曲を書くようになったからです。

彼本来の気質としては、短調の暗い曲を多く作りたかったのかもしれません。

モーツァルトの名曲

『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』

ピアノソナタ:第11番『トルコ行進曲付き』

交響曲第25番 ト短調 K.183

レクイエム ニ短調 K.626

歌劇 フィガロの結婚 序曲 など

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770〜1827)

ベートーヴェン クラシック作曲家

「ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン」。クラシック作曲家としては、おそらくもっとも知名度が高い人物でしょう。

難聴によりほとんど耳が聞こえなくなっても曲を書き続けた不屈の精神をもつ作曲家であり、ピアノ曲としては「月光」「悲愴」、交響曲では「英雄」「運命」といった名曲を世に残しました。

ベートーヴェンの音楽は現代のみならず当時の音楽界でも絶大な支持をあつめ、ロマン派以降の作曲家に多大なる影響を与えたとされています。

幼少期から天才として優れた才能を発揮したモーツァルトや貴族御用達の作曲家として成功を収めたハイドンとは異なり、ベートーヴェンは云わば血の滲む努力でのし上ってきた人物です。

ベートーヴェンはドイツのボンという小さな街の「ケルン選帝侯宮廷の歌手」の一家に生まれました。一見裕福な音楽系の家庭にも思えますが、実態は祖父の援助によってなりたっていた家庭であり、その祖父が亡くなると一気に貧困に陥りました。

家計崩壊後、酒におぼれ始めた父はベートーヴェンの才能を当てにし、一攫千金を狙える作曲家に仕立てるための音楽教育を施します。
ただ、その教育はまさに音楽ではなく、音が苦。ベートーヴェンは一時期音楽が大嫌いになるほど追い詰められた環境の中で能力を磨くこととなります。

彼の苦悩はまだまだ続きます。
16歳の時に慕っていた母マリアが死去、更に父がアルコール依存症となったことで、貧困は更に深まってしまいました。
その結果、クリスティアン・ゴットロープ・ネーフェという作曲家のもとで勉強を続けつつも、家族のために複数の仕事をかけ持つ日々がしばらく続くことになります。

21歳の頃。父が亡くなり、さらに世話をしていた2人の弟も成長します。家族のために身を粉にして働く日々は終わり、遂にベートーヴェンは作曲活動に専念できるようになりました。
また同時期には当時の音楽会において高い名声を得ていたハイドンに才能を認められ、彼に弟子入りするためにドイツからウィーンに移住を果たします。

オーストリア ウィーン

この時代のベートーヴェンは「初期のベートーヴェン」と呼ばれ、ハイドンやモーツァルトの影響を受けた比較的明るく穏やかな曲を多数書きあげました。
特にピアノの名手としても評価が高かった彼のピアノ曲の出来は素晴らしく、月光や悲愴といった現代でも愛され続ける曲もこの時期に作られています。

しかし、ベートーヴェンに再び過酷な運命が圧し掛かります。
それは難聴です。

難聴になった原因は諸説ありますが、20代中盤頃から難聴に悩みはじめ、28歳の頃には殆ど耳が聞こえなくなってしまいます。
耳の障害は音楽家にとっては致命的であり、ベートーヴェンは深い絶望に苛まれました。
その絶望はあまりにも深く、31歳の時に『ハイリゲンシュタットの遺書』を残し自殺一歩手前まで精神的に追い詰められます。
ただ、ベートーヴェンは得意としていたピアノをあきらめ、「作曲」だけに全てを注ぎ込むスタイルをとることで少しづつですが復活を果たします。

そして、この時期から作り上げられるのが、ベートーヴェンの真骨頂「交響曲」。
様々な感情を五線譜に込め、彼にしか作り上げられない曲を次々と書き上げていったのです。

ベートーヴェン ピアノ

難聴となったベートーヴェンは音を感覚的に扱うことが出来なくなったため、過去に作られた歴代の交響曲を分析し緻密に音楽を作りあげる「徹底的な理論武装スタイル」をとりました。
そして、この理論武装から生まれた音楽の数々はこれまでの作曲技法の歴史を変えるものとなります。

古典的な形式の発展と構造の再構築をはかり、古典派音楽の完成形といえる仕上がりにまで作り込まれた交響曲の数々はまさにオーケストレーションの教科書。
33歳の時に作曲した交響曲3番を皮切りに、生み出された交響曲(3番〜6番)は音楽の理想形として崇められることになります。

また、難聴になってからの約10年間はベートーヴェンの中期と称され、彼の大半の曲がこの時期に作曲されます。ジャジャジャジャーンという特徴的なフレーズが有名な運命(5番)もこの時期の作品です。
曲調が耳が聞こえていた時の明るく穏やかな曲調から重厚感がある曲調に変わっていることも、彼の心境と状況を物語っています。

晩年の15年はベートーヴェンの後期に当たり、この時期にはベートーヴェンが神格化されるキッカケとなった数々の名曲が作り上げられます。ベートーヴェン最後の交響曲にして大作である「交響曲第9番」が作曲されたのもこの時期です。

一見順風満帆に創作活動を行ったように思えますが、実はこの時期においてもベートーベンは深い問題を抱えながらの活動となりました。

問題の一つは自身のスランプ。1818年ごろからベートーヴェンは思うように作品を書けなくなり、数年間試行錯誤の時期が続きます。最終的にはバッハが用いた対位法技術を作品に取り入れることで、スランプを脱出しました。

もう一つの問題はプライベートでの家庭内不和。弟(ベートーヴェンは3兄弟の長男)と甥であるカールとの関係に問題を抱え、一時活動の停滞を余儀なくされました。

これらの問題に加え、健康状態も悪化にも苦しみます。

40歳の頃にはついに耳が全く聞こえなくなり、更には神経性の腹痛や下痢も発症。1826年12月には追い打ちをかけるように肺炎を患い、やがて満足に動くことすら難しくなります。

最終的には手の施しようがないほどに病を悪化させ、1827年3月26日に56年の生涯を終えました。

ベートーヴェンは晩年に輝かしい名作を残しましたが、最後の最後まで苦悩し続ける過酷な運命を生きた人物であったといえます。

古典派時代 作曲家の特徴と生涯

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この記事を書いた人

可愛いモノや綺麗なモノが好きなアマチュアヴァイオリン製作家。優れたヴァイオリンを一本でも多く作ることを目標に活動中です。
製作工程や音楽に関する記事を更新しています。

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