
西洋クラシック音楽史は大きく分けるとバロック・古典派・ロマン派・近代音楽に分類されます。
それ以前の音楽はルネサンス音楽、それ以降の音楽は現代音楽と呼ばれますが、一般的にクラシック音楽として認知されているのは「バロック〜近代音楽」の時代において作曲された曲です。
この記事ではバロックに活躍した、これだけは抑えておきたいクラシック作曲家を年代別に一覧にしてみました。
クラシックを専門としない弦楽器製作家や演奏家、さらには作曲をされている方。この機会にクラシック作曲家について一緒に勉強してみませんか?
前期ロマン派の作曲家
ロマン派音楽は古典派音楽を「ロマン派主義」の精神によって更なる高みへと押し上げた、クラシック音楽において最も華やかな時代といえます。
ロマン派主義は18世紀末から19世紀で起こった精神運動の一つであり、「理性偏重」「合理主義」といった特徴をもった古典主義とは異なり、感受性や主観に重きをおいた考え方です。
古典派音楽よりメロディアスな曲が多く、クラシック音楽初心者でも楽しめる曲が多岐にわたって存在することが特徴です。

ロマン派音楽の特徴はバッハ・モーツァルト・ハイドン・ベートーヴェンといった名立たる作曲家たちが作り上げてきた機能和声法に半音階的なニュアンスを取り入れ、さらに大きな動きを取り入れた音楽性です。
オーケストラの編成はこれまで以上に大規模になり、それに伴い演奏時間も増えています。
例えば交響曲。
古典派時代の交響曲は長くても30分以上になることはありませんでしたが、ロマン派時代の交響曲は当たり前のように30分オーバーの曲が並び、ロマン派の終盤に入ると1時間にも及ぶ曲が現れ始めます。
また、古典派主義の音楽は「合理主義」によってかなり理論ずくめのカッチリとした音楽でしたが、ロマン派音楽は「感情表現」を押し広げられており、心の深いところを表現するロマンティックな音楽へと進化を遂げています。

ロマン派の音楽はそのどれもがロマンティックであるわけではなく、作曲家によって大きく作風が異なります。
古典派音楽を追随した作曲家の曲であれば古典派のような曲が展開されますし、逆に新しい音楽の形を模索し「革新的な音使い」を目指した作曲家が作り上げる曲は古典派にはない雰囲気を持っています。
ショパンやリストが作り上げた現代でもロマンティックな音楽として認定される曲もあれば、シューベルトやブラームスが作り上げた曲のように、かなり古典派風な曲も存在します。
バロック・古典派の前半においては音楽は教会や貴族の為に作られるのが基本でしたが、ロマン派に入ると音楽は民衆の為の音楽へと変貌を遂げました。
それに伴い誰に向けて書くか、どのような音楽を目指すかはこの時代では「自由」になっています。
カール・マリア・フォン・ウェーバー(1786〜1826)

ウェーバーはオペラの作曲家として当時絶大な人気を誇った作曲家です。
彼は数々のドイツオペラを書き続けることで、同ジャンルの認知度と知名度を上げ、そして並々ならぬ努力の結果「魔弾の射手」という最高傑作を生みだします。
現代においての知名度は低いですが、ワーグナーへドイツオペラの歴史をつなげた人物として、音楽史においては非常に重要視されています。
彼が生きた時代はロマン派初期。
当時のドイツやオーストリアはオペラ=イタリアオペラというイメージが定着しており、ドイツオペラはジャンルとして根付いていませんでした。
しかしウェーバーは並々ならぬ努力と情熱により根付いたイメージを払拭し、ドイツオペラを1つのジャンルとして定着させることに成功します。
ウェーバーはドイツのオイティーンに生まれ、劇団の団長であった父の元、ドイツやオーストリアの全土を公演して回る幼少期を過ごします。
幼少期を演奏(公演)旅行で過ごした経歴はモーツァルトに似ていますが、劇団と一緒に過ごした経緯からウェーバーは「オペラ」に関する感性が磨かれていきました。
美声の持ち主であったウェーバーは9歳から本格的な音楽教育を受け始め、ヨハン・ホイシュケルやハイドンの弟であるミヒャエル・ハイドン、ゲオルク・フォーグラーといった有名作曲家からピアノの演奏や作曲について学びます。
1799年には自身初のオペラである『愛と酒の力』を作曲。オペラ作曲家としてステップアップを果たし、その後も才能を着々と開花させながらドイツ各地で作曲活動に勤しみます。
優れた作曲能力とピアノ演奏能力を持っていたウェーバーですが、幼少期の時から「美声」も武器でした。しかし、この美声を大失態によって失ってしまいます。
その大失態とは、硝酸をワインと間違えて飲んだことです。
何故間違えてしまったのかは定かではありませんが、この失態によってウェーバーは声がでなくなってしまいます。
この出来事により”歌手”として活動を続けられなくなったウェーバーは、作曲家/ピアニストとしての活動を本格化させていくこととなります。
20歳半ばを迎えた頃からウェーバーのキャリアは加速的に高まります。
1813年にはプラハ歌劇場の芸術監督に就任、更に1817年にはザクセンの宮廷楽長に任命されるなど、ウェーバーは音楽家として高い地位を得る人物となりました。
この時期のウェーバーはピアノ曲や歌曲、室内楽曲といった幅広いジャンルの曲を手がけますが、メインジャンルはやはり自身の核となるドイツオペラでした。
当時の音楽界はオペラといえばイタリアオペラという価値観が強く、ウェーバーのドイツオペラはなかなか評価されない時期が続きます。
しかし、ウェーバーはドイツオペラの普及を諦めませんでした。
彼は数々のドイツオペラを書き続けることで、同ジャンルの認知度と知名度を上げていき、そして並々ならぬ努力の結果「魔弾の射手」という最高傑作を生みだします。
彼の代表作となった「魔弾の射手」は1821年にベルリンで公演され、ドイツオペラの傑作として音楽界から絶大な支持を受けることに成功。遂にこれまでのオペラ=イタリアという価値観を見事に覆しました。
大きなミッションを成し遂げたウェーバーは1826年に結核にてこの世を去りますが、彼の功績は絶大であり、後続の作曲家に大きな影響を与えたと語り継がれています。
ジョアキーノ・ロッシーニ(1792〜1868)

イタリアオペラの作曲家として活動した「ロッシーニ」。
「明るい作風」のオペラを得意とし、親しみやすい喜劇の数々は大衆から絶大な支持を受けたとされています。44歳にして引退し、以後は美食家として活躍したというユニークな生涯を送ったことでも有名です。
代表作は「ウィリアム・テルの序曲」「セビリャの理髪師」など。
室内楽曲や歌曲・ピアノ曲といったジャンルも手がけましたが、やはりオペラこそが彼の真骨頂です。ちなみにロッシーニは手抜きの天才とも呼ばれ、自然に過去の作品を使いまわす技術にも長けていたとされています。
ヴェルディやプッチーニといった後の大作曲家に影響を与えた功績も見逃せません。
ロッシーニはロマン派初期の作曲家です。イタリアオペラの作曲家として活動し、当時の音楽界において絶大な人気を誇りました。作風は肖像画のイメージ通りの「明るい作風」。親しみやすい喜劇の数々は大衆から絶大な支持を受けたとされています。
ただ、ロッシーニに関しては、他のクラシック作曲家のような詳細なデータが残っていません。
というのもロッシーニは生きている間は大きな名声を受けましたが、すぐに忘れ去られてしまった人物だからです。
76歳まで生きなが作曲家としては44歳にして引退していること、音楽よりも食の道が優先であったこと。これらの理由がロッシーニが時代の流れに埋もれてしまった原因なのですが、恐らくロッシーニは死後の名声はにあまり関心を示さなかったのではないでしょうか。
豊かな才能を持ちつつも音楽に固執しなかった変わり者、それがロッシーニなのです。
1792年。ロッシーニはイタリア マルケ州にあるペザーロに生まれ、8歳の時に美食の街として有名なボローニャへ移り住みました。
彼は見た目から裕福な家庭で育ったと思われがちですが、実は父は投獄中・母は生活苦の歌手という意外にも貧困家庭で育った人物です。
ただ、祖母に預けられたため、ロッシーニ自体は貧困な幼少期を送ったというわけではありません。寧ろイタリアの新鮮な食材に触れ、「天使のよう」と称されるほど早くも肥えて始めていたといわれています。
その後ボローニャ音楽大学に進学したロッシーニは類まれな才能を開花させ、18歳にしてオペラ作曲家としてデビューします。(フィレンツェ:オペラ・ファルサ『結婚手形』にて)
デビュー後のロッシーニは『試金石』『タンクレーディ』『アルジェのイタリア女』といったヒット作を次々と作曲。
23歳の時にはナポリで『エリザベッタ』の公演を成功させたことをキッカケに、サン・カルロ劇場の音楽監督に就任します。
名声を確固たるものとしたのは24歳の時に書き上げた代表作『セビリアの理髪師』。
この作品でロッシーニはイタリア国内のみならず、ヨーロッパ中にその名を刻むことに成功します。

数々の名曲を仕上げたロッシーニは30歳の時にパリのイタリア座の音楽監督に就任。その2年後にはフランス国王シャルル10世に記念オペラ・カンタータ『ランスへの旅』を献呈し、「フランス国王の第一作曲家」の称号と終身年金を得ます。
しかし、創作人生に固執していなかった彼は終身年金を得たことにより最後のオペラ『ウィリアム・テル』の公演を最後にオペラ作曲を引退。その後は兼ねてから本当に大好きであった美食の道へと満を持して進むことになったのです。
44歳の頃には僅かながら続けていた作曲活動を完全に引退。その後は美食家としてボローニャやフィレンツェ、パリで活躍を収め、晩年には高級レストランを経営して名声を博しました。
最後を迎えたのは1868年11月13日(76歳)。太りすぎてしまったことから様々な病気を発症し、この世を去りました。
フランツ・ペーター・シューベルト(1797~1828)

「フランツ・ペーター・シューベルト」は貧しい生まれであれながらも「愛されキャラ」によってのし上がった人に好かれる作曲家です。シューベルトの人脈から生まれたシューベルトを称える音楽会「シューベルティアーデ」によって名声を博し、人の和によって頭角を現しました。
代表曲は「交響曲 未完成」「魔王」「白鳥の歌」など。特に歌曲に関しては後に「歌曲の王」と呼ばれるほどの名作を残しています。
典型的な死後に評価された作曲家であり、31歳という若さでこの世を去っています。
シューベルトはオーストリア リヒテンタールの決して裕福ではない家庭に生まれた苦労人です。
本格的な音楽教育を施されたのは5歳の時のことで、アマチュア音楽家であった父の手ほどきを受け、その才能の片理を見せるようになります。
父は幼きシューベルトの能力を開花させるためには優れた環境が必要だと判断し、シューベルトをリヒテンタール教会の聖歌隊指揮者ミヒャエル・ホルツァーの指導する聖歌隊に預けることを決意。
父のおかげで聖歌隊の一員となったシューベルトはピアノやヴァイオリンといった楽器に触れることが出来るようになり、音楽家として成功するための環境に入るこむことができました。

聖歌隊において一目置かれる存在となったシューベルトは11歳にして寄宿制神学(コンヴィクト)へ奨学金を受けて進学。コンヴィクトでも彼は才能を発揮し、その歌声にて人々を魅了しました。
また、この時期から作曲分野においても徐々に頭角を現していきます。
シューベルトに関する文献の中では、彼は友に恵まれた人物とよく記されています。
つまり、人に好かれる人物だったわけです。
現に聖歌隊に在籍していた時も、寄宿制神学校時代も彼は多くの友人からサポートを受けながら努力を続けたという記録が残っており、貧しい生まれでありながらも彼が成功できたのは助けたくなる「いいやつ」だったからなのでしょう。
そしてこの特徴こそが今後の音楽人生の鍵となります。
1813年に入り、シューベルトは変声期を迎えたことからコンヴィクトを去ることとなります。
その後シューベルトは教師として仕事をしながら作曲の勉強を続け、有名作曲家サリエリからの指導を受けながら実力を身に着けてます。
時には師からオリジナリティーの無さを指摘され、時にはつまらない教師という仕事に鬱気味になりながらも、様々なジャンルの音楽を手掛けました。
『糸を紡ぐグレートヒェン 』『ピアノのための4つのソナタ』『交響曲第2番変ロ長調 』といった有名楽曲もこの時期に作られています。

シューベルトに転機が訪れたのは教師となってから3年が経過した1816年のこと。
彼の曲を愛してやまない法律学生フランツ・ショーバー(金持ち)に作曲家として専念することを打診されたことによりシューベルトの運命は大きく変わります。
またとないショーバーの提案を受け入れることにしたシューベルトは安定的な教師の職を辞め、ショーバーの客人となることで作曲に専念する環境を得ます。
この時期の彼はピアノ曲や宗教曲、歌曲に交響曲といった様々なジャンルに挑戦し『交響曲第4番ハ短調 』『交響曲 第5番変ロ長調 』といった名曲を残します。
ただ、シューベルトが悠々自適に創作活動を行えたかと言えばそうではなく、シューベルトは実に貧困でした。
その理由はハイドンやモーツァルトのように公演を成功させていったわけでなく、こじんまりとした作品発表に留まっていたです。
ハッキリ言うと、あんまり売れていませんでした。
しかしながらシューベルトには他の作曲家にはない「ひとの良さ」があります。友人たちが率先して手助けをしてくれたおかげで、貧困でありながらも充実した創作活動をおくることができていたようです。

シューベルトの人柄を如実に表しているのがシューベルティアーデという音楽会です。この組織はシューベルトの人脈から生まれたシューベルトを称える音楽会であり、一流歌手やピアニストが彼が作り上げた曲を演奏する会として、盛り上がりを見せました。
シューベルトはこの友との時間を何よりも大切にしており、このシューベルティアーデをキッカケに躍進を見せます。
1818年5月1日に刑務所コンサートとしてイタリア風序曲が演奏され、自身初の公演に成功します。
1819年には歌曲の作曲家として公演デビュー。1821年には誰もが知る名曲「魔王」を作曲し、ようやく出版にまで漕ぎつけます。
才能がありながらも結果が出なかった苦労人は、仲間の力を借りながらも遂に作曲家として世に認められるようになってきたのです。
ここからシューベルトとシューベルティアーゼの快進撃が始まる!
と思いたいところですが、魔王による出版後は失速し、3年間ほど冬の時代を過ごします。
劇付随音楽『アルフォンソとエストレラ』と『フィエラブラス』は規模が大きすぎたために公演に失敗。
他の力作も思ったような成果は出ず、シューベルトは世間に相手にされない不安を常に抱きながらの生活を送るようになります。
また、落ち込みやすいシューベルトはこの数年を限りなく鬱モードで過ごしたようです。
しかしながらシューベルトはこの時期に駄作ばかりを作っていたわけではなく、歌曲に至っては傑作ばかりを世に残します。
彼の繊細な感性から生まれた美しい旋律は次第に適正な評価を受けはじめ、1825年には相次ぐ楽譜の出版によりこれまでにない収入を得ました。
この優れた歌曲の数々により、シューベルトは後に歌曲の王と呼ばれるようになるわけです。
肖像画からもわかるように、シューベルトは小太りでした。そのため健康状況は芳しくなく、28歳の若さにして体調を頻繁に崩すようになります。
そして、親交のあったベートヴェンが死去し、葬儀に参列した夜。彼は友人たちと訪れた酒場にて盛大な死亡フラグを立てます。
何故かハイテンションに「この中で最も早く死ぬ奴に乾杯!」と音頭をとったのです。
友人は恐らく「どうしたんだ、、こいつ」と思ったことでしょう。
そして、不吉な乾杯してしまった翌年。シューベルトは31歳という若さでこの世を去りました。
死後間もなくシューベルトの作品集が出版されましたが、当時の彼はベートーヴェンやモーツァルトよりも格下扱いであったため、「シューベルティアーデのための作曲家」と見なされました。
そのため、歌曲や小曲ばかりが出版され、交響曲といった大作は世に埋もれていくことなります。
シューベルトは生きている間に名声を得ることは叶いませんでした。しかし、彼の死後から10年が経過した1838年2月にシューマンがシューベルトの兄フェルディナントの家を訪問したことにより、放置されていた彼の作品は日の目を見ます。
フェルナンドの家にてシューマンが見つけた作品は『交響曲第8番』。シューベルトを小曲と歌曲の作曲家だと思っていたシューマンはその認識の誤りに気づき、交響曲第8番を世に放つために友であるメンデルスゾーンに譜面を送ります。
そして、1838年3月21日。メンデルスゾーンの指揮、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏によって『交響曲第8番』が公演され大好評を博します。
この公演によりシューベルトの作品は注目を浴びるようになり、彼の残した作品の数々が研究されるようになりました。
エクトル・ベルリオーズ(1803〜1869)

「ベルリオーズ」はクラシック音楽史において非常に重要な人物です。
音楽と他の芸術を絡める標題音楽の概念を確立させ、自身の失恋体験を曲にした「幻想交響曲」で名を馳せました。
また、大半のクラシック音楽家は幼少期の頃から英才教育を施されていますが、ベルリオーズが本格的に音楽の勉強を始めたのは14歳の頃。ピアノが上手くなかった大作曲家という稀有な存在だったりもします。作曲に関しても素人同然でしたが、シャルル・シモン・カテルの『和声概論』を参考に独学にて才能を伸ばしたようです。
ベルリオーズの音楽キャリアは医科大学に入学した18歳になることから始まります。
開業医であった父の後を継ぐために医学の道を志したベルリオーズですが、医学の勉強を続けていくうちに自らの適正に悩まされるようになり、興味は次第に音楽に移行します。
その後、学業よりもオペラ座に通うことに趣を置くようにったベルリオーズは、20歳の時に父の反対を振り切りパリ音楽院に入学。音楽院の教授ジャン=フランソワ・ル・シュウールからオペラと作曲を学びました。
クラシック音楽において、20歳から本格的な教育を受けることは遅いスタートではありますが、ベルリオーズはそのハンデをもろともせずに勉強にのめり込みます。
パリ音楽院において意欲的に創作活動に取り組み続けるベルリオーズは「ローマ賞」と呼ばれる作曲コンテストで第一等を受賞することを目標に『オルフェウスの死』『エルミニー』『クレオパトラの死』を作曲。
これらの曲で優勝を果たすことは叶いませんでしたが、少しつづ手応えを掴んでいきます。
そして、音楽院に入学してから7年が経過した1830年のこと。『サルダナパールの死』を作曲し、4度目の挑戦にして初めてローマ賞を受賞します。加えて同年12月5日には代表曲である『幻想交響曲』の公演にも成功します。
遅咲きにはなりましたが、ベルリオーズは27歳にして一流作曲家の仲間入りを果たしました。
『幻想交響曲』の誕生秘話
まだローマ賞第一等を受賞する前のこと。ベルリオーズは劇団女優ハリエット・スミッソンに恋をし、劇場に頻繁に顔を出し手紙を送っていました。悪い言い方をすればストーカー紛いの熱烈なアピールをしていたのです。
ただ、受賞前のベルリオーズは駆け出しの作曲家に過ぎず、全く相手にしてもらえませんでした。
そのことを根に持ったベルリオーズは彼女を憎むようになり、負のエネルギーから幻想交響曲を書き上げました。
作曲家として成功への道を歩み始めたベルリオーズですが、プライペートでは大きな挫折を味わいます。それは女性ピアニスト マリー・モークとの婚約破棄です。ローマ賞で第一等を受賞して世間の脚光を浴びたベルリオーズはマリー・モークと婚約を結んだのちローマに留学しました。(留学から戻ったら結婚する予定だった)
しかし、留学後になんとマリー・モークはカミーユ・プレイエルと恋仲になり、婚約破棄。失恋続きとなったベルリオーズは憎悪と失意にまみれ、一ヶ月ほどの療養を余儀なくされます。
失意のローマ留学を終え、パリへと戻ったベルリオーズはハリエット・スミッソンと再会し恋仲になります。そして、1833年には4年前からの恋を成就させ結婚。
その後はパリ郊外のモンマルトルに拠点を移し、オペラ作品を中心に数々の名曲を生み出します。

この時期はベルリオーズの中期にあたり、『ベンヴェヌート・チェッリーニ』『劇的交響曲 ロメオとジュリエット』『交響曲 イタリアのハロルド』といった楽曲を完成させました。
ベルリオーズの名声はどんどん高めていったかのように思えますが、実はベンヴェヌート・チェッリーニが不評の出来となってしまったことから、1840年になる頃には人気凋落の一途を辿ります。
今も昔も一回やらかしてしまうと致命的なダメージを追うのは一緒。公演での収入が一気に減ったベルリオーズは貧困に陥ることになりました。
パリでの人気が落ち込んだベルリオーズはその後ウィーン・ブタペスト・ドイツ・ロシアなどに趣き、海外での活躍を狙います。そしてベルリオーズは狙い通りに公演を次々と成功させ、各国から称賛される存在へと上り詰めました。
ただ、この時期においてもパリ公演では失敗と成功を繰り返していたため、「富」を得たとは決して言えない状況が続きます。
妻であるスミッソンと性格の不一致から別居状態になり、雑誌の執筆活動で忙しく作曲に当てる時間が少なくなるなど、成果を上げる一方で苦労が絶えない生活を送り続けました。
1848年2月にパリで2月革命が勃発。不穏な空気がパリ全体を包み込む中、同年7月には父が死去、別居中の妻ハリエットも脳卒中で倒れるなど、ベルリオーズはこの年に多くの不幸に見舞われます。
その後パリの治安が悪化したことが原因となり、ベルリオーズは創作活動の停滞を余儀なくされます。

苦しい状況を打破しようとベルリオーズは1850年にパリ・フィルハーモック協会を設立し、指揮者としてパリの音楽会を盛り上げようとしました。しかし、好評を得ることができず、経営難によって僅か1年あまりで解散を余儀なくされます。
そして1854年3月には妻スミットンが死去。この約8年間はベルリオーズにとって暗黒時代と呼べる時期となってしまいました。
後期のベルリオーズは再び演奏旅行にて名声を博します。
主に評判がよかったドイツを中心に公演を続け、暗黒時代を払拭させる活躍をみせました。また、幾度も栄光と挫折を味わったフランス・パリにおいても声楽曲『キリストの幼時』を皮切りに再び名声を博し、名作曲家として確固たる地位を確立します。
1856年にはフランス学士院会員に選ばれ、ついに安定した生活を送れるようになります。4年後の1860年にはドイツのバーデン=バーデンにて2幕のオペラ『ベアトリスとベネディクト』を公演し、これも好評を博します。
その後も精力的に活動を行い、60歳で筆を置くまで名作を残し続けました。
最後を迎えたのは65歳の時の事です。58歳の時に再婚相手のマリー・レシオ、63歳の時に息子のルイを亡くし、病気を患っていていたベルリオーズの心と体に大きなダメージを与えます。
孤独を嫌っていたベルリオーズにはもう生きていくだけで気力が残っていなかったのでしょう。1869年3月8日にその生涯を閉じました。
フェリックス・メンデルスゾーン(1809~1847)

「結婚行進曲」の作者であり、ドイツロマン派を代表する超一流音楽家として名を馳せた「フェリックス・メンデルスゾーン」。お金持ちの家に生まれた「純粋培養のお坊ちゃま」であり、知的教育及び高度な音楽教育によって欧州中で活躍しました。
古典派に近い作風であり、「歌の翼に」「春の歌」など、優雅で美しい曲を数多く作曲。特に通称「メン・コン」と呼ばれるメンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲」はヴァイオリン奏者の重要なレパートリーです。
クラシック作曲家は裕福な家庭に育ったタイプと貧困に喘ぎながらも伸し上がってきたタイプがいます。
メンデルスゾーンは完全に前者であり、ドイツハンブルグの銀行家アブラハム・メンデルスゾーンとレア・ザロモン(ドイツ語版)の息子として生まれました。
所謂お金持ちの家に生まれた「純粋培養のお坊ちゃま」です。

メンデルスゾーンがまだ幼い頃に両親の仕事の都合からベルリンに移住。
この移住をキッカケに両親は4人の子供(フェリックスは上から2番目)に知的教育及び高度な音楽教育を施します。
メンデルスゾーン一家の豪邸は様々な芸術家が日々訪れる夢のような環境であり、高度な芸術と常に触れ合う機会がありました。そして、この恵まれた環境によって彼らの感性を大きく磨かれます。
同時期の有名作曲家であるベルリオーズやシューマンも裕福な家庭にて育った人物でしたが、メンデルスゾーンに至ってはその比ではありません。
6歳からピアノを始めたメンデルスゾーンはベルリン移住後、作曲家でありピアノ教師であった「ルートヴィヒ・ベルガー」にピアノを学びます。当初は4人姉弟共にベルガーの指導を受けましたが、最終的に音楽への興味を抱き続けたのはフェリックスと姉のファニーの2人であったようです。
その後フェリックスとファニーは作曲法を「カール・フリードリヒ・ツェルター」に師事します。
ツェルターはヴィルヘルム・フリーデマン・バッハの教え子であった大祖母の紹介によりフェリックス姉弟の師となった人物であり、先代バッハから伝わる対位法技術を得意としていました。
そんなツェルターの指導を受けたフェリックスは次第に「バロック音楽や初期古典派」を重んじる作曲スタイルをとるようになり、やがて伝統的なドイツ作曲家として開花していきます。
なお、姉ファニーも優れた才能を発揮し、作曲家・ピアノストとして活動を開始。姉弟の中は非常に良好であり、生涯に渡り良き理解者としてお互いを支え合いました。(若干シスコン・ブラコン気味)
メンデルスゾーンは9歳にして早くも頭角を現し、神童として崇められます。
もちろんその背景には一家の財力も影響しており、フェリックスの楽曲を演奏するためのオーケストラが用意されたり、作品の出版に一役買って出るといったサポートも大きな力となったことでしょう。
12歳の時には文豪ゲーテにモーツァルトを超える神童だと評価され、14歳の時には大祖母からバッハの「マタイ受難曲」のスコアを渡されたことをキッカケに「バッハ」に対する興味をさらに膨らませます。
16歳の時には彼の代表曲である「弦楽八重奏曲 変ホ長調 Op.20」やシェイクスピアの「夏の夜の夢」を元にして作曲した「序曲」を作り上げ、大きな名声を得ます。
そして20歳になったフェリックスは歴史に埋もれていたバッハの「マタイ受難曲」を自らの指揮により復刻公演を果たし、大成功をおさめます。
この公演には国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世や詩人ハイネといった著名人を含む数千人が訪れたと記録が残っています。
尚、この公演の利益は貧困に苦しむ少女の為の裁縫学校の設立に使われました。流石は大金持ち。やることのスケールが違います。
このように超一流の家庭に育ったフェリックスは成人するまでに音楽家として申し分ない功績を上げ、若くして絶大な支持を受ける超有名人となりました。

20歳を迎えたメンデルスゾーンが行ったのはウィーン・フィレンツェ・ローマといった年での演奏旅行です。この旅で各地の音楽家や画家との交流を深めた彼は、翌年以降「イタリア交響曲」といった旅からインスピレーションを受けた作品を作り上げました。
そして演奏旅行を終えた後は、デュッセルドルフ(ドイツ)とイギリスを拠点とし音楽活動を展開させていきます。
デュッセルドルフでは1833年に音楽監督に就任し、ライン音楽祭といった名だたる音楽祭の指揮を担当。
イギリスにおいては計10回の演奏旅行を通し、序曲「フィンガルの洞窟」と「スコットランド交響曲」といった代表作を作曲。また、ヘンデルのオラトリオをバッハの時と同様に復刻公演し、バロック音楽の再評価を進めました。
1847年のイギリス演奏旅行の際にはフィルハーモニック管弦楽団の演奏にてベートーヴェン「ピアノ協奏曲第4番」のソリストを務め上げる活躍を見せ、同公演においては更に「スコットランド交響曲」を自らの指揮で発表。
この公演にはヴィクトリア女王も姿を見せており、メンデルスゾーンに対する評価の高さが伺えます。
1835年にライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者に任命されたメンデルスゾーンはデュッセルドルフからライプツィヒへ移住。この地では「音楽水準の向上」に趣をおいた活動を展開します。
メンデルスゾーンは作曲や合唱団の組織作りなど多岐にわたる活動を行いましたが、最も力をいれていたのは演奏会です。毎回好評を博していた演奏会では自作曲のみならず、有望な若手の曲や過去に埋もれた名曲の復刻にも尽力。シューベルトの「交響曲第8番」がメンデルスゾーンによって公演されたことは有名なエピソードとして残っています。
また自作曲においてはオラトリオ「聖パウロ」や劇付随音楽「夏の夜の夢 Op.61」を作曲し、名声を博しました。
尚、夏の夜の夢 Op.61には有名な結婚行進曲も含まれています。
1843年には現在のフェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ音楽演劇大学ライプツィヒにあたるライプツィヒ音楽院を設立。学院長として若手音楽家の指導に当たりました。
精力的にライプツィヒにて音楽活動を行っていたメンデルスゾーンですが、1847年5月に姉ファニーが脳卒中で息を引き取ったことをキッカケに体調を大きく崩します。
もともと晩年は過労から体調を崩しがちでしたが、心の支えである姉を失ったダメージはすこぶる大きく、姉の死から約半年後に自らも息を引き取りました。
死因はくも膜下出血と言われていますが、祖父・姉・両親全員が脳卒中で亡くなっていることから、遺伝的な何かがあったとのではないかと推測されています。
フレデリック・ショパン(1810~1849)

クラシック音楽の作曲家としては1位2位を争う知名度を誇るショパン。
CMで使われる頻度も多く、「子犬のワルツ」や「エチュード革命」「雨だれ」「別れの曲」といった名曲の数々は誰もが一度は聴いたことがあると思います。
ショパンのメロディーは繊細かつロマンティックであるため、非常に印象に残りやすいです。現にCMやドラマに採用されることが他の作曲家よりも圧倒的に多く、クラシック音楽に興味がない人でも頭の中にメロディーが刷り込まれています。
生涯の殆どをピアノ曲の作曲に捧げた彼はまさに「ピアノの詩人」。生み出された名曲たちは今尚多くの人々に愛され続けています。
ショパンのフルネームは「フレデリック・ショパン」。
彼は1810年にポーランドのジェラゾヴァ・ヴォラに生まれ、ワルシャワで育ったポーランド屈指の作曲家・演奏家です。
音楽一家の長男として育ったショパンは幼いころからヴァイオリンやフルートといった様々な楽器に触れ、6歳になることろには「ピアノ」のレッスンを本格的に開始します。
すると、どうでしょう。
ショパンは神に選ばれし者というしかないほどの天才的な感性と技術を開花させ、8歳の頃にはワルシャワの貴族サロンにて自作曲を披露するとんでもない神童に育ちました。
現代に名が残っている作曲家は皆天才なのですが、ショパンのピアノの実力は名だたる作曲家の中でもトップクラスだといわれています。作曲に関する能力もピアノ曲に限ればモーツァルトやベートーヴェンといった名作曲家を凌駕していたようです。
ショパンは音楽活動を続けながら「ワルシャワ高等学校」「ワルシャワ音楽院」に進学。ワルシャワ音楽院においては首席で卒業し、ショパンを指導したエルスネルからは音楽の天才とまで称されました。穏やかでユーモアもある性格から、学生時代は友人と指導者に恵まれた順風満帆な日々を過ごしたとされています。
ただ、天才として確実に音楽家へのステージを上がる一方で、ショパンは身体が見事な虚弱体質でした。
子供の頃から呼吸器の感染症にかかりやすく、ワルシャワ音楽院を卒業する頃には完全に肺結核患者となってしまいます。
後の世でショパン19歳の肖像画を見た専門家からも「ショパンは結核にかかっていた。色が極端に白く、喉仏が目立ち頬が落ち窪んでいる。耳も結核に特徴的な消耗を呈している。」と評されており、ショパンが青年期の頃から肺結核に苦しめられていたことは間違いないようです。
しかし、この「薄幸の天才ピアニスト」という属性は彼の個性ともいえます。この個性がなければショパンが現在においてこれほどまでの評価を受ける作曲家にはなれなかった可能性もあります。

ワルシャワ音楽院を卒業したショパンはベルリン・ウィーンに活躍の場を広げ、着々と評価を高めていきました。
しかし、1830年にワルシャワで11月蜂起(ロシア帝国の支配に対する武力反乱)が起こったことをキッカケに、ウィーンにおいて反ポーランドの風潮が高まります。その影響を受け、ウィーンでの活動が困難となったショパンは活動拠点をパリに移すことを決断します。
パリに移住したショパンは芸術家や他の著名人との出会いを重ね、天才ピアニストとしての名声を博します。
ポーランドの作曲家として有名なショパンですが、彼が残した名曲の大半はパリで書かれたものであり、実質はパリで名声を博した作曲家であるともいえます。
しかし、同時代のロマン派作曲家とは異なり、ショパンがパリで公開演奏会を行うことは殆どありませんでした。その理由は以下の二つです。
・ショパンがサロンでの演奏及び自宅での仲間内の演奏を好んでいたこと
・持病によって各地を飛び回る演奏活動ができなかったこと
普通は積極的な公演活動を行わなければ作曲家は生活が難しいのですが、ショパンはヨーロッパ中から集まる多くの弟子にピアノを教えることで収入を得ていました。
名作曲家・名ピアニストであることのイメージが強いショパンですが、実はカリスマピアノ教師でもあったわけです。
常に体調が悪く体力がなかったショパンですが、見た目には気を使っており、ファッションセンスも抜群でした。
溢れる才能に、病弱属性、そしてオシャレともなると、そりゃモテたわけです。
そして、選り取り見取りで恋人を選べるショパンは26歳の時に10歳下のマリアという娘に恋をし求婚。マリアもそのプロポーズを受け入れ、はれて婚約者となります。
スキャンダルを恐れ、保守的な恋愛観を持っていたショパンでしたが、マリアに対する思いは熱いものがあったようです。
しかし、婚約翌年にショパンの体調面を危惧したマリアの両親の反対によって2人の婚約は破談。この婚約は世に知らされることはなく、ひっそりとショパンの恋は終わりを告げました。
マリアと別れたショパンはその後ジョルジュサンドという女性と交際を始めます。
ジョルジュ・サンドは19世紀に活躍したフランスの女流作家で、数知れない男性遍歴で知られる人です。つまり超肉食系。
病弱で繊細なショパンとは一見相性が悪いようにも思えますが、なぜかショパンはジョルジュサンドと恋愛関係になってしまい、2人でマジョルカ島への逃避行を行います。
このショパンの行動には周囲の人間は非常にびっくりしたようです。
現代に置き換えると、内気な友達が派手なモデルと急に付き合い始めたようなものです。マリアとの交際・破局すら表に出さなかったショパンですから、なおさら周りをびっくりさせたことでしょう。
結局体調を悪化させたショパンはバルセロナ・マルセイユを経由してパリに戻ります。その後は冬はパリで活動、夏はサンドの別荘で暮らす生活が始め、この生活を約9年ほど続けました。
ただ、この生活は病弱なショパンにとっては負担が重く、彼の体を蝕んでいきました。
その結果サンドはもはや介護士のような存在になってしまい、サンドは不満を募らせます。最終的にはサンドの子供たちをめぐるトラブルなどの理由からショパンが37歳の時に2人は別れることとなりました。
この別れはショパンが亡くなる2年前のことです。
サンドとの出会いによってショパンの寿命は確実に蝕まれ、名声にも影を落としすことになったのは間違いないでしょう。ショパンが選んだ運命なのですから仕方のないことですが、やはり悪女と呼ばれる女性には気をつけたほうがよいですね。
サンドと別れたショパンはパリでの音楽活動を続けますが、サンドとの生活の代償は重く、階段の上り下りすら一人では困難になるほど体は弱っていました。
残された最後の力を使い、38歳の時に「パリでの最後の演奏会」そして「イギリスへの演奏旅行」を行ったのち、ショパンは力尽きました。
享年39歳。ピアノの詩人は数々の名作を残し、この世を去ります。

ショパンの葬儀はパリのマドレーヌ寺院で行われ、モーツァルトのレクイエムが歌われました。現在はフランス パリ ペール・ラシェーズ墓地に眠っており、ショパンの音楽を愛してやまないファンが毎日のように彼の墓に訪れます。
なお、ショパンの葬儀には3,000人近くが参列したといわれていますが、その中にジョルジュ・サンドの姿はありませんでした。彼女との出会いはショパンにとって本当に良いものだったのかは疑問が残ります。
ロベルト・シューマン(1810~1856)

前期ロマン派の作曲家として絶大な人気を誇るシューマン。彼は多くの悲劇と熱い恋愛による激動の人生を送り、その生き様を象徴するかのような繊細で美しい名曲は死後から約170年が経過した今尚、多くの音楽ファンに愛され続けれています。
代表曲は「幻想小曲集 作品12より 飛翔」「トロイメライ」「謝肉祭」「チェロ協奏曲」など。
ロマンティックなメロディーの数々から、まさにロマン派を象徴とする存在だといわれています。
シューマンはドイツのツヴィッカウという街で出版業を営むアウグスト・シューマンと外科医の娘であるヨハンナ・シュナーベルの息子として生まれました。
両親とも知的指数が高く、経済的にも豊かであったことから、シューマンは恵まれた環境で才能を開花されていきます。
シューマンが音楽に興味を持ったのは7歳の頃です。
父と訪れたドレスデンにてウェーバー指揮によるベートーヴェンの交響曲を聴き、作曲家という職業に憧れを抱きます。
裕福な家庭に生まれたシューマンは芸術に触れ合う機会も多く、ピアニスト イグナーツ・モシェレスの演奏やモーツァルトのオペラ「魔笛」といった超一流の演奏を聴き続けたこともシューマンの才能開花の要因になりました。
シューマンはただ裕福な家庭に育っただけでなく、音楽的なセンスにも恵まれていました。10歳になるころには自作曲を作れるようになっており、特にピアノ演奏の才能は抜群に優れてたとされています。
そんなシューマンの才能を更に開花させようとした父は「財力」により、シューマンの活動を強烈にサポート。超高価なシュトライヒャーのピアノを買い与え、作曲の勉強に必要な道具や楽譜を大量に揃えます。
おそらくこの話を聞いたらベートーヴェンやシューベルトが顔を真っ赤にして嫉妬に狂うかもしれません。それほどまでに、シューマンの環境は恵まれていました。
その後シューマンはギムナジウム(中高一貫校)にて勉学に励みながらもヨハン・ゴットフリート・クンチュというオルガニストに師事し、ピアノの演奏や作曲について学びます。
また父の影響からか文学にも興味を抱き、ドイツの小説家であるジャン・パウル作品を中心にゲーテ・ホフマンといった詩人の作品にも親しみました。
一見優等生にも思えるシューマンですが、自分の価値観と合わない人間を敵とみなしたり、複数の女性と同時交際したりと嫌な面も多々見受けられたようです。
現代に置き換えると「金持ちの家に生まれて苦労知らずに育ったら調子に乗った」といった感じでしょうか。
ただ、彼の心に闇を抱えさせる出来事が15歳の時に起こります。
それは父の病死と姉の入水自殺です。
これまで順風満帆な人生を送ってきたシューマンに大きなショックを与えたことは想像に容易いでしょう。
亡き父はシューマンが音楽家になることを望んでいましたが、母は音楽家になることを反対しており、シューマンは強制的に法律の道へ進まされます。
その後、しぶしぶ法律大学に入学することになったシューマンですが、どうしても法律への興味を持てず、大学の講義に参加せずに作曲に没頭する日々を送ります。
挙句ピアノ教師フリードリヒ・ヴィークの門下生となり、法律の勉強はそっちのけで作曲とピアノの勉強を始めました。(母には一応許可はもらえた)
この時期のシューマンはフリードリヒ・ヴィークの厳しいレッスンを受けながらピアノの腕前を磨いていくのですが、最も彼に影響を与えたのが娘クララとの出会いです。
クララ・ヴィ—クは若干9歳にして音楽界デビューを果たしたピアノの神童であり、同じ門下生であるシューマンとクララは徐々に親しくなります。
そして、この出会いがやがてシューマンの運命を大きく変えることとなるのです。
法科大学生であったシューマンは有名な法科教授の授業が受けられるとこを理由にハイデルベルグ大学に転校します。ただ、この理由は巧妙なウソであり、法律科のティボー教授が指導する音楽サークルに入りたかったことが真の理由でした。
ティボー教授は合唱団を組織し、著書を執筆するほどの実力を持ったアマチュア音楽家です。法律にも精通し、更に音楽にも携わる彼にシューマンは憧れを抱いていたのでしょう。
当時のシューマンは法律家になるべきか音楽家になるべきかを迷っていた時期であり、彼の指導を受けることで自分の道を決めようとしていたのかも知れません。
ハイデルベルグ大学で法律と音楽の二刀流生活を送っていたシューマンですが、やがてティボー教授から運命を変える見解を受けます。
「神はシューマンに法律家としての運命を与えていない」
この言葉を聞いたシューマンは自分の心に正直になるようになり、ピアノと作曲に自身の殆どの時間をささげるようになります。
そしてシューマンが20歳になった1830年。母に音楽家になる決意を伝えた後、数年間レッスンを受けていたフリードリヒ・ヴィークの弟子となり、音楽家への道を本格的に歩み始めました。
フリードリヒ・ヴィークの住み込み弟子となったシューマンでしたが、性格の不一致から2年余りで師弟関係を解消します。その後は社交活動を行いながらピアノと作曲の腕前を上げていきますが、21歳の時に悲劇が起きます。
自ら開発した指トレーニングマシンで指を破壊
文字にしてみるとカッコ悪い事件ですが、テクニックを追い求めた結果指を壊し、シューマンのピアニストとしても道はここで終わりました。
この出来事は現代のピアニストにとっての戒めとなっており、無理なトレーニングを行うとシューマンのようになると恐れられています。
もうピアノを満足に弾くことは叶わない。
この事実にシューマンは絶望し、何度も音楽を辞めようと苦悩しますが、紆余曲折あって何とか立ち直り、やがて「作曲家」として生きていくことを決意します。
この時、ピアニストではなく作曲家としてのシューマンが誕生しました。
尚、この時期から「新音楽時報」の編集という仕事にも携わるようになり、執筆者としてのシューマンも同時に誕生しています。
学生自体からシューマンは恋愛体質でしたが、成人してからも恋愛絡みの話題が絶えません。
24歳の頃にはヴィークの新弟子である18歳のエルネスティーネに恋に落ち、婚約にまで発展しますが、彼女の複雑な家庭事情が原因となり破談となります。
この恋愛中にシューマンは『謝肉祭』と『交響的練習曲』を作曲。恋が彼の創作意欲のモチベーションに繋がっていることが伺えます。
エルネスティーネとの恋が終わってしまったシューマンは、今度は学生時代から親しくしていたクララと恋に落ち、交際を開始。
一見軽い感じに付き合ったようにも思えますが、この恋はこれまでの恋とは一味も二味も違い、シューマンの生きる理由そのものと呼べるほどの大恋愛となります。
ただし、クララとの恋には大きな障害がありました。それはクララの父であり、以前に揉めてしまった師ヴィークの存在です。
ヴィークのシューマンに対する感情
■弟子になった際に揉めてスグに自分の元を去った奴
■教え子に手を出した奴
■娘に手を出した奴
■性格に問題がある奴
ヴィークはクララとシューマンが交際していることを知ると大激怒。これが長きに渡る抗争の始まりとなってしまいます。当たり前ですが、ヴィークがシューマンにもつ感情は良いものではありません。当然ヴィークは2人の恋愛を妨害し、クララをシューマンから遠ざけます。
しかし、クララとシューマンの恋愛はヴィークの想定以上に盛り上がっており、ここから泥沼の恋愛構想が始まりました。
この抗争は非常に長期に渡るため割愛しますが、最終的に法廷抗争にまで発展しながらも、2人は1840年9月12日にライプツィヒ近郊シェーネフェルトの教会で結婚式を挙げ、夫婦となりました。
この時期にシューマンが作曲した曲はクララのために書かれた曲であり、『幻想小曲集』『ピアノソナタ第3番』『子供の情景』『クライスレリアーナ』『幻想曲』といったピアノ学習者にお馴染みの名曲を多数世に残しました。
ヴィークの妨害で会えない時間が続いた2人でしたが、シューマンが作り上げた曲をクララが演奏することによって愛を育んでいたようです。
クララと結婚した後、シューマンは作曲家として次なる一歩を踏み出します。
まず行ったのは「歌曲」の充実です。
1840年は『ミルテの花』『女の愛と生涯』『詩人の恋』という有名曲を含む120曲以上にも及ぶ歌曲を作曲し、それまでのピアノ曲中心の作曲家というイメージを払拭します。
さらにシューマンはクララとバッハやベートーヴェンの楽曲の研究にも乗り出し、対位法や管弦楽に対するアプローチの引き出しをどんどん増やしていきます。
その結果、1841年には自身初となる交響曲第1番を作曲。同年には更に複数の交響曲を仕上げ、作曲家としての評価を着々と上げていきました。
シューマンは結婚した年の1840年においては歌曲を、1841年は交響曲を、1842年は室内楽曲を中心に手掛け、公私ともに充実した日々を送ります。
順調に見えたシューマンとクララの生活ですが、第1子が生まれ第2子の妊娠が発覚した1842年の時に綻びが生じます。
それはシューマンの精神障害の発症です。
当初は単なる過労だと思われていましたが、実は鬱病のような症状を発症しており、約2年間ほど他者との接触を拒むようになります。
この頃からシューマンは上がったり下がったりを繰り返す人生を送ることとなってしまいました。
しばらく精神状態が芳しくなかったシューマンですが、パリからシューマン夫妻が住んでいるライプツィヒを訪れたベルリオーズとの交流により、状況が上向きます。
そして、回復の兆しの中で作り上げたオラトリオ『楽園とペリ』が大ヒットを生み、シューマンの名声は街中に轟きました。
それまでは知名度の低いピアノ作曲家でしかなかったシューマンですが、遂に一流作曲家の仲間入りを果たします。
そして、その名声はあれほど揉めていたヴィークが和解を持ちかけてくるほど確固たるものだったようです。

しかし、上がることもあれば下がることもあるのがこの時代のシューマン。
クララのロシア演奏旅行に同行したことをキッカケに、精神状況は再び地に落ちます。
旅の疲れもシューマンの状態を下げた原因の一つでしたが、本当にシューマンの精神を落ち込ませたのはクララの成功です。
確かにシューマンは以前に比べ評価を格段に上げました。ただ、それでもクララの名声には遠く及ばず、ロシア演奏旅行で彼女の成功を目の当たりにしたシューマンは劣等感を抱き、体調を崩してしまいます。
その後もシューマンの体調は芳しくなく、高所恐怖症・神経疲労・幻聴といった更なる精神障害を発症。
結果的にライプツィヒでの音楽活動を続けることは困難となり、気候が穏やかで過ごしやすいドレスデンへの移住を決めます。
ドレスデンに越してきたシューマンですが、精神障害の症状は一向に改善されず、幻聴や耳鳴り、双極性障害に苦しみます。
しかしながら、作曲が出来る状態の時には『ピアノ協奏曲』や『交響曲第2番』といった作品を作り上げるなど、創作意欲自体は失われてはいませんでした。
また、この時期にシューマンは交友関係が極端であり、メンデルスゾーンと深い友好的な関係を結ぶ一方で、ドレスデンにて出会ったリヒャルト・ワーグナーとは険悪な関係が続きます。
特に保守的な音楽性を持つシューマンと改革的な音楽性を持つワーグナーの相性は芳しくなく、シューマンは自身の雑誌にてワーグナーの音楽性を批判しました。
当時のドレスデンはライプツィヒとは異なり音楽が大衆に根付いていない地でした。
具体的にはシューマンが得意とする器楽曲より貴族向けのオペラが人気を博している地であり、シューマンとは相性がよい街とは決していえなかったようです。
移住した当初は絶大な人気を誇るクララをもってしても、シューマンの楽曲はなかなか評価をされず、もどかしい日々を送りました。
しかし、人気ソプラノ歌手ジェニー・リンドとの共演やドレスデンでの人気ジャンルであるオペラの作曲にも取り掛かったことにより、次第にシューマンの評価は高まりを見せ、最終的にはドレスデンでもシューマン夫妻は成功を収めます。
この頃のシューマンは作曲家としての定職を探しながら作曲を続け、バッハの楽曲を広めるためのバッハ協会を設立するといった活動を展開。精神障害に苦しみながらも精力的に活動を行いました。
その結果1849年の秋にデュッセルドルフの音楽監督としてのポストを獲得。ドレスデンに別れを告げ、夫妻揃ってデュッセルドルフへと旅立ちます。
危うい精神状態でありながらもシューマンは「子どもはたくさんいればいるだけよい」という考えの元、クララとの間に8人の子供を作ります。(ドレスデンを旅経つ時点では6人)
子だくさんであったことは2人にとって幸せなことでしたが、それだけ経済的に負担がかかることにも繋がり、結果的にはシューマンの精神を追い込む原因となってしまいました。
ちなみに、ピアノ曲として人気の高い『森の情景』や『子供のためのアルバム』はドレスデン在住時に作られており、自然豊かなドレスデンでの暮らしは少なからずシューマンの心を癒したのでないかといわれています。
デュッセルドルフで音楽監督に就任したシューマン夫妻は熱烈な歓迎を受け、大きな活躍を期待されます。体調が若干上向いていたシューマンはその期待に応えるべく『チェロ協奏曲』や『交響曲第3番 ライン』などの名曲を作曲。更には指揮者としてコンサートの成功させ、見事に期待通りの活躍をみせます。
しかしその代償は大きく、負荷がかかった心は急速に壊れ、度重なる失敗を繰り替えすようになります。
■度重なる指揮者としての失敗
■コミュニケーション能力の不足
■感情の起伏の激しさ
精神障害を抱えているシューマンは上記のような能力不足を露呈し、批判の的となります。
その結果危うい精神はさらい危うくなり、1852年夏には、神経過敏、憂鬱症、聴覚不良、言語障害も発症。
ますます心身ともにボロボロとなります。

勿論このような状況では音楽監督を続けることはできず、最終的にシューマンは全ての役職を下ろされ、音楽家としてこれ以上ない屈辱を味わいました。
もうこの時点でシューマンは殆ど壊れてしまったといっても過言ではありません。
1853年のこと。もう既に壊れてかけていたシューマンですが、若干20歳の若き作曲家「ブラームス」がシューマン夫妻の家を訪れた時は人が変わったかのように元気になったといいます。
その後シューマンはブラームスの事を天才と称し、弟子に迎え可愛がりました。
ブラームスもシューマンを熱く信頼し、2人の関係はシューマンが生涯を終えるまで固い絆で結ばれたとされています。
また、ブラームスは気苦労の絶えないクララをサポートし、心の支えとなりました。
この二人の関係は後の世で様々な憶測を生みますが、一般的には「親友関係」であったとされています。
ブラームスとの出会いによって一時は回復の兆しを見せたシューマンですが、1854年を迎えたころにはもはや精神は限界を迎えていました。
自我を保つことも危うくなったシューマンはクララや子供たちを傷つけることを恐れ、遂にライン川に身を投げ、入水自殺を図ります。

運よく救助されたシューマンですが、そのまま精神科送りとなり、当時妊娠していたクララの負担とならないように単身でエンデニヒという地へ向かうこととなりました。
ちなみにシューマンが自殺を図ったことはクララには知らされず、彼が死去した後に知らされたようです。
シューマンは最晩年の2年間をエンデニヒという地で過ごします。この地はいわばサナトリウムであり、徹底的に療養をしなければ生きていくことすらも儘ならない状態までシューマンの容態は悪化していました。
食事に毒が入っていると思い込む。
悪口の幻聴が聞こえる。
味覚も嗅覚もほぼない。
錯乱を起こす。
体が硬直して動かない。
もう、シューマンは音楽家ではなく廃人となっていました。
そして1856年7月29日午後4時、シューマンは46歳の生涯を閉じたのです。
シューマンの最後はクララによって看取られましたが、シューマンとクララが最後に交わした言葉が非常に意味深だったと言われています。
その言葉は以下の通りです。
シューマン「お前、僕は知っているよ・・・」
シューマンは何を思ってこの言葉を発したかどうかは定かではありません。ただ、これほどまでの大恋愛をした2人としては少し寂しい最後の言葉だったようにも思えます。
クララとブラームスの関係について言っているのか。それとも精神障害による妄言だったのか。
それは彼ら2人にしかわかりません。