
西洋クラシック音楽史は大きく分けるとバロック・古典派・ロマン派・近代音楽に分類されます。
それ以前の音楽はルネサンス音楽、それ以降の音楽は現代音楽と呼ばれますが、一般的にクラシック音楽として認知されているのは「バロック〜近代音楽」の時代において作曲された曲です。
この記事では後期ロマン派時代に活躍した、これだけは抑えておきたいクラシック作曲家を年代別に一覧にしてみました。
クラシックを専門としない弦楽器製作家や演奏家、さらには作曲をされている方。この機会にクラシック作曲家について一緒に勉強してみませんか?
後期ロマン派の作曲家
後期ロマン派は半音階的和声の多用や楽器構成の拡大が図られ、作り上げられる楽曲はどの曲も壮大となりました。
ただ、その分演奏時間も長くなっているため、現代人にとってはややとっつきにくいです。
標題音楽の理念に基づいて音楽を構成したワーグナー、伝統的な絶対音楽の価値観を崩さずに作曲活動を展開したブラームス、民族主義音楽を根付かせたスメタナやシベリウスといった作風が大きく異なる作曲家が登場し、以降クラシック音楽は多様性に溢れるものとなっていきます。

フランツ・リスト(1811〜1886)

ピアノの魔術師「フランツリスト」。
ピアノ学習者なら誰もが一度はフランツ・リストに憧れたことがあると思います。
優雅なショパンに対してテクニカルなリスト。
ピアニストとしてだけでなく、作曲家としても活躍したリストは紛れもなくロマン派作曲家の大御所的存在です。
代表作はピアニスト時代に作られた「愛の夢」「ラ・カンパネラ」「ハンガリー狂詩曲」。ピアノ曲は演奏時間も短く、クラシック初心者でも気軽に楽しめるため、現代における需要は高いです。
リストはハンガリー人の父とオーストリア人の母の間に生まれたハンガリー育ちの作曲家です。
ただ、ハンガリー人ではあるものの、家庭内の公用語がドイツ語であったことから生涯ハンガリー語を喋ることはありませんでした。
叔父がヴァイオリニストであったことからリストは幼少期から音楽を嗜み、10歳の頃には一流ピアノプレーヤーとして注目される存在になります。
その後11歳でウィーン音楽院に入学するためにオーストリア ウィーンへ移住。ツェルニーやサリエリといった一流プレーヤーから本格的な音楽教育を受け、才能を開花させていきました。

ウィーン音楽院を卒業した後もリストはウィーンに留まり、ベルリオーズ・ショパン・メンデルスゾーン・シューマンといった同時代の名立たる作曲家と交流を深めながら、自身の音楽性をより深めていきます。
そして、19歳を迎えたある日。
リストはヴァイオリンの超絶技巧プレーヤー パガニーニの演奏に感銘を受け、自分は「ピアノのパガニーニ」になると決意を固めます。
この出会いこそ、ピアノの魔術師と呼ばれたリストの原点となりました。
その言葉通りにリストはコンサートで成功を収め続け、パガニーニのコンサートから僅か数年後には「歴代最高のピアニスト」と評価されるようになります。
圧倒的な演奏技術はヨーロッパ中に轟き、「指が6本ある」とも噂され、遂には「今後彼を超えるピアニストは現れない」とまで言われるようになりました。
実際にリストがこの世を去ってから130年が経過した現代においても、彼を越えるピアニストは存在していません。
名実ともに彼は史上最強のピアニストとなったのです。
また、リストはショパンよりもアグレッシブな演奏スタイルであったことも文献に残されています。
サロンピアニストとして繊細な音楽を弾き続けたショパンに対し、リストは情熱的で力強い演奏で聴くものを魅了するプレイスタイルであったようです。
恵まれた「神の手」による情熱的な超絶技巧は幾度のピアノの弦やハンマーを破壊したとの逸話も残されていますが、決してリストの演奏が乱暴だったわけではなく、ピアノの構造がリストの技術についていけなかったから壊れたともいわれています。
尚、リストの演奏にも耐えうるように設計されたピアノ「ベーゼンドルファー」が彼の演奏に耐えきったことも有名なエピソードです。
リストはピアニストとして活動する傍ら、ピアノ教師をしても活躍しました。
一般的には「名プレーヤーは名指導者にはなれない」というイメージがありますが、彼は教え方も超一流であり、自分のモノマネではなく生徒の個性を伸ばす教育を行ったようです。
また、リストの凄いところは生徒から月謝を取らなかったこと。
リストは演奏以外でお金を取らないというポリシーを持っており、生徒には無料で指導を行いました。
的確なアドバイスにユーモアのあるレッスンが無料。
指導者としてのリストの評価は誰に聞いてもポジティブな言葉しか返ってこなかったとされています。

ピアニストとしても指導者としても超一流だったリストはとにかくモテました。
優れた能力を持っていることは勿論、顔がとにかく整っていたからです。
コンサートを行えば取り巻きの女性が殺到し、多数の熱烈なファンが失神するほどの異常な人気を博します。
もはや演奏家というよりもアイドルだったといってもよいでしょう。
また、本人自体も超肉食系であったことから、女性をとっかえひっかえしていたプレイボーイであったことでも知られています。
草食系であったショパンとは真逆の性格だったわけです。
様々な女性との交流を重ねてきたリストは、20歳前半の頃にマリー・ダグー伯爵夫と交際を開始(いわゆる不倫)。約10年ほど同棲生活を送り、2人の間には3人の子供が生まれました。
しかしカトリックでは離婚が禁止されていたため、2人は婚姻関係を結ぶことはできず、1844年に身分と人種の問題によって別れています。

ピアニストとして一線を退いた後のリストはドイツ ワイマールにて宮廷楽長の職に就きます。
この時期のリストは主に作曲家として活躍をし、管弦楽曲や交響詩において数々の名作を残しました。
その後リストは約10年ほど宮廷楽長の任を全うした後、50歳になる頃にローマに移住。下級聖職位(僧職)に就き、カトリック信仰に基づく宗教音楽の作曲に没頭しました。
この頃のリストの作品は徐々は調性を持たない「無調」へと向かっていきます。
1877年に作曲した『エステ荘の噴水』では巧みなアルペジオで水の流れを表現し、ラヴェルやドビュッシーといった印象主義音楽家に大きな影響を与え、1885年に作曲した『無調のバガテル』では無調を宣言し、新たなる音楽の方向性を示しました。
ピアニスト時代の活躍ばかりが目立つリストですが、実は一線を退いた後も作曲家として音楽界に影響を与え続けていたのです。
尚、リストは作曲家としては「革新派」にあたり、ワーグナーらと共に新ドイツ派と呼ばれています。ピアノのパガニーニとなることを決意した若かりし時と同じように、リストは生涯にわたって常に新しい道を模索しつづけました。
最後を迎えたのは1886年。慢性気道閉塞と心筋梗塞によって74年の生涯を終えます。
リヒャルト・ワーグナー(1813〜1883)

リヒャルト・ワーグナーは「楽劇王」と呼ばれ、音楽界のみならずヨーロッパの政治や社会情勢にも強い影響を与えた人物です。これまでの常識を打ち破る画期的な技法を多岐に渡って取りいれ、クラシック音楽の方向性を大きく変えた人物として知られています。
イタリアオペラの形式を真っ向否定した「無限旋律」技法を駆使し、劇作・歌詞・大道具・歌劇場建築をを一つの総合芸術に昇華させ、楽劇というジャンルを作り上げました。
クラシック初心者には敷居の高い「オペラ作曲家」であったことから、ワーグナーのことをよく知らないという方も多いですが、音楽史においては1位2位を争うほど超重要人物です。
代表作品は「楽劇 ワルキューレ」「楽劇 ローエングリン」といったオペラ作品。ナチスの政治思想に利用されたり、戦争を題材とする映画に使用されたことからどうしてもワーグナー=戦争というイメージが付きまといますが、音楽家としての実力は紛れもなく超一流です。
ワーグナーはザクセン王国(現ドイツ)ライプツィヒに生まれ、音楽好きの家庭にて育ちました。
幼少期から様々な楽器に親しんだワーグナーは10代の頃にはベートーヴェンに憧れ作曲を開始。交響曲で大作を作り上げることを目標に、音楽活動を行います。
ただ、次第にドイツオペラの巨匠であるウェーバーに憧れがシフトし、交響曲ではなくオペラ作曲家を志すようになりました。
18歳の時には名門ライプツィヒ大学に入学しますが、すぐに中退。その後は聖トーマス教会の指導者であったテオドール・ヴァインリヒから作曲の手ほどきを受けながら実力を磨いていきます。
翌年には最初の歌劇『婚礼』を作曲。その才能の片鱗を見せ、若干20歳にしてドイツ ヴュルツブルクにて市立歌劇場の合唱指揮者に就任します。
しかし、ワーグナーは飽きやすいうえに性格にも難があったため、この仕事は長続きせず、すぐに職を辞してしまいました。
ヴュルツブルクで仕事を辞めた後は「劇場指揮者」としてマクデブルク・ドレスデン・ラトビア・パリといった都市を転々とし、指揮活動を行いながらオペラ曲を作るという日々を送ります。
ワーグナーに転機が訪れたのは29歳の時。初演したオペラ『リエンツィ』が大成功を収めたことにより、徐々に知名度を上げていきます。
翌年にはドレスデン国立歌劇場管弦楽団の指揮者に就任。
1843年『さまよえるオランダ人』、1845年『タンホイザー』、1848年『ローエングリン』といった作品の公演を行い、成功を収めました。
また、1846年にはベートーヴェンの第9の復刻公演にも成功。過去の遺産を次の時代に紡ぎました。
ワーグナーの30代は不遇な20代とは打って変わって華やかな時代となったといえます。
作曲家として成功を収めたワーグナーですが、ドレスデンで起こったドイツ三月革命の革命運動に参加したことにより「指名手配」されてしまいます。
その他大勢として参加したのであれば、指名手配までされることはなかったかも知れません。しかし、ワーグナーはあろうことか革命軍の先頭に立ち、軍の指揮をとっていたのです。
ここまで、過激な行動を起こした上に結果的に弾圧されてしまったのですから、指名手配されたとしても何ら不思議ではありません。
結局ワーグナーはフランツリストの力を借り、スイスに脱出。慣れ親しんだドイツから約9年にも及ぶ亡命生活を送ることになります。
ただ、この行動力こそが彼のカリスマ性であり、音楽及び政治に影響を与えた大きな理由とも言えます。
ワーグナーの凄いところはこのような状態にも関わらず、作曲活動を停滞させるどころか益々加速させていったことにあります。
1859年『トリスタンとイゾルデ』、1862年『ニュルンベルクのマイスタージンガー』といった彼の代表作の多くがこの時期に作曲されています。
また、同時期にはこれまでのオペラの価値観を一転させる「楽劇」の理論を見事に創り上げ、ドイツオペラの歴史を大きく塗り替えた功績も残しました。
1864年に追放令が取り消されたことにより、ワーグナーは晴れてドイツ国内へ再び足を踏み入れることができるようになりました。
この処置にはドイツ国内から賛否両論が起こりましたが、大きな功績を残した音楽界においては割とウェルカムな反応を受けたため、割とスムーズに作曲家として国内復帰を果たします。
1868年には『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の初演に成功。1874年にはワーグナーの代表作の一つである『ニーベルングの指環』を完成させました。
また、1872年からはバイロイトへ移住しており、1876年には自身の作品を上演するため劇場「バイロイト祝祭劇場」をルートヴィヒ2世の援助を受けながら建築しました。
1882年にはワーグナー最後の作品となった作品『パルジファル』を完成させますが、翌年の1883年2月13日にヴェネツィア旅行中に心臓発作でなくなります。
ワーグナーの濃密な69年にも及ぶ生涯はこれにて幕を閉じました。
ジュゼッペ・ヴェルディ(1813〜1901)

ヴェルディはイタリアのロマン派作曲家として「オペラ」を発展させたオペラ界の巨匠です。
1813年、リヒャルト・ワーグナーと同じ年に生まれたヴェルディは87歳まで生き、クラシックの大作曲家としては第3位となる長寿を全うした人物でもあります。
生涯に渡ってオペラの作曲に励み、『リゴレット』『椿姫』『アイーダ』といった作品を残しました。
なお、代表曲はサッカー日本代表の入場曲「アイーダ 凱旋行進曲」、そしてエヴァンゲリオンの採用され、有名になった「レクイエム」です。
ヴェルディの出生地はイタリアロマーナ州近郊にあるレ・ロンコーレ村。
決して裕福とはいえないこの地で彼は家業である酒屋兼宿屋を手伝いながら育ちました。
音楽に最初に興味を持ったのは8歳のころであり、父から小型チェンバロを買ってもらったことをキッカケに、演奏に没頭したといわれています。
その後、10歳にして村指折りのチェンバロ/パイプオルガン奏者となったヴェルディは父の勧めにより親元を離れ、下宿をしながらブッセートという街の上級学校と音楽学校に進学。そこで作曲と演奏の技術を磨きました。
17歳の時にはヴェルディを援助してくれている音楽好きの商人バレッツィ家に住み込むようになり、18歳の時にはミラノに住むオペラに精通する音楽教師「ヴァンチェンツォ・ラヴィーニャ」に師事します。
ラヴィーニャの影響を受けたヴェルディは次第にオペラへの興味を膨らませるようになり、その後着々と才能を開花させていきました。
ヴェルディはオペラの聖地ミラノでの成功を夢見て作曲活動を続けていましたが、22歳の時に恩人であるバレッツィの要請により、ブッセートに戻り音楽教師としての生活を送ることとなります。
ミラノでの成功を夢見ていた彼にとっては些か悔いが残る選択となりましたが、経済的に支援をしてもらっているバレッツィを裏切ることは出来ず、要請を素直に飲み込むことにしました。
ブッセートに戻ったことをキッカケに、ヴェルディはバレッツィ家の長女マルゲリータと結婚。
子供にも恵まれ、ヴェルディは安定した職と家庭を持つ「普通の生活」をスタートさせます。
が、しかし。
どうしても夢をあきらめきれなったヴェルディは1839年に一家で再びミラノに移住。
安定した生活を捨て、夢へ再チャレンジすることを決めました。
義父となったバレッツィもこの選択を尊重し、経済的な支援を継続したといわれています。
退路を断ち、家族を自分の実力で食わせていくしかないヴェルディは精力的な作曲活動をミラノにて展開。移住してから1年に立たないうちに処女作『オベルト』をスカラ座で公演することに成功します。

この公演は見事に好評を博し、楽譜の出版、さらにはスカラ座の専属作曲家としての契約を勝ち取りました。
オペラ作曲家としてここからヴェルディのサクセスストーリーが始まる!と本人も家族も思っていたことでしょう。
しかしながら運命はヴェルディに強烈な試練を与えます。
長女が病気で1歳7カ月という短い生涯を終え(1838年 ブッセート)、翌1840年には長男も死去。
そしてなんとその翌年の翌1841年には妻マルゲリータすら病気で亡くし、ヴェルディは若くして全ての家族を失い、孤独な生活を送ることとなりました。
この一連の不幸のダメージはあまりにも大きく、ヴェルディは作曲が出来なくなるほど精神を病み、オペラ「一日だけの王様」の公演に大失敗。
完全にモチベーションを失った彼はそのまま暫く「引きこもる」ことになります。
音楽から身を引いていたヴェルディですが、スカラ座支配人メレッリの説得により再起を図ります。
当初はどんな説得にも応じない予定でしたが、旧約聖書のナブコドノゾール王を題材にした台本の「行け、わが思いよ、黄金の翼に乗って」というセリフに感化され、もう一度作曲活動を再開することにしました。

ヴェルディが失意を乗り越えて完成させた作品こそ、彼の傑作『ナブッコ』です。
第3幕にはヴェルディに再起を決意させた「行け、わが思いよ、黄金の翼に乗って」の合唱が取り入れられ、ナブッコは当時盛り上がっていたイタリア統一運動の精神に共鳴し凄まじい人気を博します。

最終的にナブッコは57回もスカラ座で公演されスカラ座の新記録を樹立。この成功によりヴェルディは一躍有名人となり、富と名声を得ました。
その後、売れっ子となったヴェルディは年1回のペースでオペラを作り上げていきます。
この時期の主な作品は以下の通りです。
年 | 作品名 |
---|---|
1839年26歳 | オベルト |
1840年27歳 | 一日だけの王様 |
1842年29歳 | ナブッコ |
1843年30歳 | 十字軍のロンバルディーア人 |
1844年31歳 | エルナーニ、二人のフォスカリ |
1845年32歳 | ジョヴァンナ・ダルコ、アルツィーラ |
1846年33歳 | アッティラ |
1847年34歳 | マクベス、群盗、イエルサレム |
1848年35歳 | 海賊 |
1849年36歳 | レニャーノの戦い、ルイーザ・ミラー |
1850年37歳 | スティッフェーリオ |
ナブッコで名声を博したヴェルディはミラノスカラ座以外の劇場とも複数契約を結び、超ワーカーホリックになりながら曲を仕上げ続けていました。
家族が亡くなってしまって仕事しかやることがなかったこともワーカーホリックになってしまった理由でしょう。
来る日も来る日も仕事。一度過労で倒れることもありましたが、すぐに復帰し作曲活動を続けていきました。
各都市で公演を次々と成功させたヴェルディの名声は益々ヨーロッパ中に知れ渡るようになりました。この時既にイタリアオペラの作曲家としては間違いなくNO.1に上り詰めていたといえます。

家族を失ってから1人で創作活動に命を燃やしてきたヴェルディですが、実は「ジュゼッピーナ」という女性との交際を始めていました。(知り合ったのは結構前)
『マクベス』を作曲した時期(34歳ごろ)からジョゼッピーナと交際は始まっており、ジョゼッピーナが居住していたパリ郊外に一緒に住んだり、ヴェルディの故郷であるブッセートに住んだり、約10年にも及ぶ同棲生活を続けました。
そしてヴェルディが38歳になったころ、彼はボローニャ県にありサンターガタに農地と大きな別荘を立て、そこで農園経営を行いつつ「ジュゼッピーナ」と穏やかに暮らすことを決めます。(劇場とのいざこざや団員に対して嫌気がさしつつあった)
事実婚という形で農園での生活はスタートし、45歳の時に遂にジュゼッピーナと再婚。欧州の社会情勢や忙しい作曲活動の影響もあり、なかなか結婚に踏み切れませんでしたが、再びヴェルディは家族の安らぎを手にすることが出来ました。

サンターガタに引っ越した後はヴェルディは曲を仕上げるペースを下げ、隔年で1作品程度のペースとなります。作品数自体は減りましたが、創作意欲自体はまだ失われてはいなかったようです。
年 | 作品名 |
---|---|
1851年38歳 | リゴレット |
1853年40歳 | イル・トロヴァトーレ 椿姫 |
1855年42歳 | シチリアの晩鐘 |
1857年44歳 | シモン・ボッカネグラ |
1859年46歳 | 仮面舞踏会 |
この時期に作曲されたオペラで最も重要な作品はリゴレットです。この作品は政治色が強く、オペラにはそぐわない作品とされていましたが、ヴェルディはこれまでのオペラにはない型破りな構成を練ることによってオペラ化に成功。見事に観衆を圧倒する作品に仕上げ、イタリア・オペラの一大傑作と呼ばれる作品に昇華させました。
農園にて妻ジュゼッピーナとの暮らしを楽しみながら創作活動を続けてきたヴェルディですが、宰相カヴールの要請により、なぜか政界に進出することになります。(国会議員に当選)
ただ、ヴェルディは宰相カヴールへの尊敬だけで政界入りを果たしたので、実はそんなに政治には興味がありませんでした。
そんな中、ヴェルディを政界へ誘ったカヴールが死去。
完全にモチベーションを失ったヴェルディは大した功績を上げることなく任期を満了します。
ヴェルディ自体は「何やってんだ俺」と思ったでしょうが、サクッと政界入りできてしまうほど知名度・人気があったことは本当にすごいことです。
年 | 作品名 |
---|---|
1862年49歳 | 諸国民の賛歌、運命の力 |
1867年54歳 | ドン・カルロ |
1871年58歳 | アイーダ |
この時期に作り上げたオペラで特に注目したいのは58歳の時に作り上げた『アイーダ』。この作品はヴェルディの集大成といえる作品であり、現代においてもオペラの定番作品として知られています。
アイーダ作曲後のヴェルディは音楽活動の休止・再開を繰り返しながらの生活を続けます。
この時期には音楽家としての人生に対するこだわりが薄れており、「私はもともと農家である」と自虐ネタすら披露するようになっていました。
たとえ若い作曲家がワーグナーに陶酔するようになっても、あまり気にしなかったようです。
また、晩年のヴェルディは農園経営をメインとしながらも慈善活動も精力的に行こなっています。
75歳の時にはヴィッラノーヴァに慈善病院を開院。86歳の時には老人ホーム「音楽家のための憩いの家」を建造し、最後まで人の役に立つために尽力し続けました。
年 | 作品名 |
---|---|
1887年74歳 | オッテロ |
1893年80歳 | ファルスタッフ |
オペラの作曲家としては80歳の時に作曲した喜劇ファルスタッフを最後に引退。
1897年には妻ジュゼッピーナが死去し、更に4年後の1901年1月27日。ヴェルディは脳卒中によってこの世を去りました。
1度目の結婚はすぐに妻との別れが訪れましたが、ジュゼッピーナとの生活はヴェルディが亡くなる4年前まで続いたため、ヴェルディにとっては幸せな人生だったといえるのではないでしょうか。
ブルックナー(1824〜1896)

「ヨーゼフ・アントン・ブルックナー」は後期ロマン派の時代に活躍したオーストリアの作曲家です。交響曲の大御所としてドイツ圏を中心に絶大な人気を誇ります。
ブルックナーはワーグナーに強い影響を受けたワグネリアンとして知られていますが、作風自体はベートーヴェンやシューベルトの影響が強く、割と保守的です。
この時代の作曲家としては珍しくオペラに携わっておらず、文学と音楽を交えた標題音楽とも距離を置いたスタイルをとっていたことも、保守的な性格を連想させます。
ただ、難解なうえに長い演奏時間を要する作品ばかりであるため、超玄人好みの作曲家であるといえます。
代表曲は「交響曲 第9番」「交響曲 第8番」など。
カトリック教徒であったことから宗教曲も多岐に渡って残されており『ミサ・ソレムニス変ロ長調』『テ・デウム』といった大規模ミサ曲も代表曲として今尚親しまれています。
ブルックナーが生きた時代はワーグナーやブラームスが活躍した後期ロマン派の時代です。
1824年9月4日にオーストリアのアンスフェルデンという村で生まれたブルックナーは幼少期から類まれな才能の片りんを見せ、10歳になる頃には教会のオルガニストとして活躍するほどの実力を身に着けます。
その後、ヘルシングという村のオルガニスト「ヨハン・バプティスト・ヴァイス」に師事し、本格的な音楽教育を受けました。
ただ、この頃のブルックナーは郊外の村の演奏家に過ぎず、ウィーンやパリといった大都市で活躍する音楽家とは程遠い存在であったとされています。

それを象徴とするかのように、ブルックナーは16歳からは教員養成所に通い、小学校の補助教員として若き頃を過ごしました。
踊りの伴奏としてヴァイオリンを演奏したり、オルガンを演奏したりといったセミプロとしての活動は盛んに行ってはいましたが、この時点では大作曲家になる片鱗はまだ見せず、なんと40歳になる頃まで地方にて過ごしました。
しかし、ブルックナーの運命はワーグナーの音楽によって一変します。セミプロとして対位法や和声法の勉強を続けていたブルックナーでしたが、1863年ごろから熱狂的なワグネリアンと化し、ワーグナーの楽曲の研究をするようになりました。
その5年後の1868年にはウィーン国立音楽院の教授に就任。郊外での生活に別れを告げ、真の作曲家になるべくウィーンへと旅立ちました。

ウィーンにて教授職についたブルックナーは『ヘ短調交響曲』『交響曲第0番』『交響曲第1番ハ短調』『交響曲第2番ハ短調』といった交響曲を次々と発表。1875年からはウィーン大学にて音楽理論の講義を受け持ち、名実ともに一流作曲家の仲間入りを果たします。
その後も『交響曲第6番イ長調』『交響曲第7番ホ長調』『テ・デウム』『弦楽五重奏曲ヘ長調』交響曲第8番ハ短調を作曲。
72歳で生涯を閉じるまで、ウィーンにて交響曲の作曲に全身全霊を尽くしました。
トラブルメーカーであったワーグナーやドラマティックなシューマンの生涯と比べると、割と平坦な人生を送った人物と言えるかもしれません。
ベドルジハ・スメタナ(1824〜1884)
ベドルジハ・スメタナはチェコのパルドゥビツェ州リトミシュル生まれの作曲家です。
ビール醸造業者の家にて育ち、音楽好きであった父の影響を受け、幼少期からヴァイオリンとピアノに親しみました。
6歳の時には公の場で演奏するほどの腕前になり、その後「フランチシェック・イカヴェッツ」に師事し、作曲を若くして学んだといわれています。

順風なスメタナの音楽人生が少しつづズレ始めたのは15歳の時。
スメタナは家族の元から離れ、プラハ「アカデミック・グラマー・スクール」に進学しますが、学校に馴染むことができず不登校になります。
そんな傷心のスメタナの心を癒したのは音楽でした。
スメタナは学校に行かずコンサートに通い、幅広い音楽の教養を身につけます。
また、自らもアマチュア弦楽四重奏に参加するなど、精力的に音楽活動を行い、やがて「音楽こそが自分の生きる道」と確信します。
しかし、プラハでの生活は長くは続きませんでした。当たり前ですが、不登校であることが親にバレます。
結局スメタナは父にプラハから連れ戻され、プルゼニという街にて残りの学生生活を送りました。

それでもスメタナの音楽への情熱は失われることはありませんでした。
夜会でピアニストとして名声を博すなど、プルゼニにおいても音楽活動を多岐にわたって展開。
やがてスメタナが音楽家を目指すことに反対していた父も、息子の音楽に対する姿勢を見ているうちに考えが変わり、音楽家の道を追うことに賛成します。
そして19歳の夏。プルゼニの学校を卒業し、音楽を目指すために再びプラハへと赴きました。
プラハで音楽家として活動を始めたスメタナですが、音楽科による教育を受けていなかったことから、まずは作曲の専門的な勉強が必要でした。
そんなスメタナに救いの手を差し伸べた人物がプラハ音楽大学の長であるヨゼフ・プロクシュ。
彼はスメタナの師となり、スメタナの経済的貧困を救うために貴族トゥーン家の音楽教師の職を与えるなど、公私ともにサポートを惜しまなかったという記録が残されています。
3年に及ぶプロクシュによる修行を終えたのちは室内楽コンサートの伴奏者として生計をたて、音楽家としてのキャリアを積みました。
スメタナに転機が訪れたのは1848年のこと。フランツ・リストに才能を認められたことをキッカケに援助を得ることができるようになり、スメタナの作曲活動は加速的に広がりを見せます。
1849年にはカテジナという女性と結婚し、伴侶を得ます。
その後フェルディナント1世の常任宮廷ピアニストの職につき、金銭的な余裕を得たスメタナは作曲活動を幅広く展開させ、『祝典交響曲』『婚礼の情景』といった作品を作曲。
徐々にではありますが、知名度を上げていきました。
スメタナが30歳を迎えたころ。不幸の連鎖が彼を襲います。
長女のベドジーシカ、次女ガブリエレ、四女カテジナが相次いで死去。
妻カテジナも結核の診断を受け、旧友カレル・ハヴリーチェク・ボロフスキーもこの世を去りました。
また、コンサートでの酷評が続いたことに加え、プラハの政治的治安が悪化の一途を辿っていることからスメタナは「プラハ」という街に嫌気がさしてしまい、32歳になるころにチェコを見限り、スウェーデン・ヨーテボリへ旅立ちました。

「プラハは私を認めようとしない」と両親へ手紙を残し、ヨーテボリへと移住したスメタナですが、ヨーデボリでは僅か数か月で認められるようになり、社会的地位を得ます。
ヨーテボリ時代においては『舞踏会のおもかげ ポルカ編曲』、交響詩『リチャード三世』、交響詩『ハーコン・ヤルル』、ピアノ曲『マクベスと魔女』などを作曲。
交響詩を多く残している理由はリストと親交が深かったことが挙げられます。
遠く離れたワイマールまでリストの元を度々訪れていた記録が残っており、如何にスメタナがリストを敬愛していたかが伺えます。

充実したヨーテボリ時代を過ごしたスメタナですが、妻カテジナに死期が迫り、最後は故郷で生涯を終えたいという希望を汲み取りドイツ ドレスデンへ移住。
同地でカテジナが亡くなった後はワイマールでリストと一時期共に暮らし、その後、弟であるカレルの家に滞在します。
その後カレルの義理の姉妹で16歳年下のベッティーナと恋に落ち、1860年に再婚。
この時期からスメタナは民族主義的な作品の作曲に取りかかるようになり、自身の方向性を確立させていきます。

プラハに国民劇場が建設が決まったことキッカケにスメタナは再びプラハへ移住。
作曲スタイルをオペラに絞り成功を狙いました。
政治的混乱が続くプラハでの活動は簡単なモノではありませんでしたが、最初のオペラ「チェコのブランデンブルク人」、第2番目のオペラ「売られた花嫁」、第4作目のオペラ「リプシュ」などが名声を得て、同劇場の指揮者に上り詰めました。
また、チェコ語の教育を受けていなかったスメタナはチェコ語での表現に苦手意識をもっていましたが、努力によってこれを克服。音楽評論家になるまでになります。
派閥争いが激化しているチェコにおいて浮き沈みの激しい作曲家生活を送っていたスメタナですが、保守派の妨害工作に会いながらもオペラ作曲家として成功を収めました。
特に1868〜74年の時期はスメタナの全盛期となり、プラハの一流作曲家と認められるようになります。
しかし、そんなスメタナに悲劇が訪れます。
ストレスの多い生活を送っていたためか耳の持病にかかり、1874年に両耳を失聴。
音楽家として致命的な聴力を失ってしまいます。
失聴したスメタナは保守派の攻撃に合い、音楽家としての職を奪られ生活苦に。さらには妻ベッティーナとの関係も悪化し、積み重ねてきたものが一気に崩れていきました。
ただ、そんな絶望的な状況下の中でも作曲をすることを辞めず、遂に代表作を作曲します。
それが連作交響詩「我が祖国」です。
我が祖国は1874年から1879年にかけて作曲された6つの交響詩からなる連作交響詩であり、チェコ国民音楽の記念碑的な作品とするために数年構想を練って作られた曲です。
有名なのは第2番 モルダウであり、この曲は誰もが1度は聴いたことがあるでしょう。ちなみに、この曲を書き終えた時にスメタナの耳は完全に聴こえなくなったといわれています。

その後も耳が聴こえない状態でありながらも『弦楽四重奏曲第1番 ホ短調「わが生涯より」』、ピアノ曲『チェコ舞曲集』3つのオペラ『口づけ』、『秘密』、『悪魔の壁』といった曲を創り上げ、遂に若き頃から思い描いてきたプラハNo.1作曲家としての地位を確立します。
ただ、その時にはもう既にスメタナは脳梅毒の末期症状(諸説あり)にかかっていました。
精神錯乱にも陥っており、1884年5月12日にプラハの精神病院においてその生涯を終えます。
ヨハン・シュトラウス2世(1825〜1899)
音楽家ヨハン・シュトラウス1世の息子「ヨハンシュトラウス2世」はウィーンから数キロ南に位置するザンクト・ウルリッヒに生まれ、ウィンナ・ワルツの作曲家であった父に憧れ、幼少期から作曲家を志すようになります。
ただ、作曲家が不安定な職業であることを知っていた父はヨハンを音楽家にするつもりはなく、ピアノの練習以外を固く禁じていました。ピアノだけ演奏を認めていた理由は、ピアノ演奏は市民の教養として日常的に行われていたからです。
とはいえ大作曲家の息子。
DNAによってインプットされた音楽への情熱を抑えることができず、祖父の家の小さな卓上ピアノにてワルツの作曲をスタートし、8歳のころには早くも才能の片りんを見せます。

しかし、そんな幼きヨハンの才能を「父」が阻害し始めるのです。
父ヨハンシュトラウス1世は、ヨハンが父に憧れて購入したヴァイオリンをなんと奪って破壊。これを機にもともと良くなかった関係性は更に悪化します。
さらに父は若い愛人に貢ぎ、実の嫁アンナと子であるヨハンに生活費を殆ど送らないというクズっぷりを発揮します。
所属していたシュトラウス楽団(父の独裁楽団)においても、コンサートマスターからヴァイオリンをひそかに学んでいたことがバレて解雇されるなど、ヨハンの幼少期は父によって成長を妨げられた日々でした。
その後、青年となったヨハンは商学部に入学し、音楽とは関係ない道に一度は進みます。
しかし、結局作曲家になる夢を諦めることが出来ず、1842年に学校を退学。オルガン奏者ヨーゼフ・ドレクスラーに師事し、音楽の基礎を学びました。

そして1844年。
数年に渡る修行の日々を終え、遂にヨハンはウィーン シェーンブルン宮殿にて作曲家・指揮者デビューを果たします。
「ヴァイオリンを演奏しながら指揮をする」という父譲りのパフォーマンススタイルをとり、初の公演は大成功。
偉大なる父と同じ「作曲家の世界」に足を踏み入れました。

ただ、父とは和解をしたわけではなく、寧ろ父ヨハン1世は息子ヨハンの才能を恐れ、新聞社に中傷記事を書かかせようとするといった妨害工作にでます。
しかし、ヨハンもただ父に怯えるだけの存在ではありません。
独自の楽団を作ったり、父とは別の新聞社と契約を結び、中傷記事に応戦しました。
親子でありながらもライバルとなった2人のシュトラウスはその後もたびたび衝突を重ねますが、最終的には和解し、協力体制を築くようになったといわれています。
和解できた時間は余りにも短く、その後1849年に父ヨハン1世は死去しました。
一流作曲家へ
父が死去したことで、シュトラウス親子への仕事はヨハンに継がれます。
父が持っていた楽団はヨハンが引き継ぎ、この時期のヨハンはシュトラウス楽団を率いて舞踏場やレストランを演奏して回る生活が続きました。
この時期の代表的な作品は以下の通り。
『ミルテの花冠』
『皇帝フランツ・ヨーゼフ1世救命祝賀行進曲』
しかし、あまりにも多忙を極めたせいか、ヨハンは過労で倒れ、一時は生死を彷徨います。
その後一命を取り留めたヨハンは自身の負担を軽減するため、弟たちにも音楽家の道を歩ませ、兄弟で仕事を分担するようにしました。
これこそが、シュトラウス一族がクラシック界に台頭することになったキッカケです。
ロシアでの活躍
ヨハンの名声はウィーンに留まらず、世界的なモノとなります。
躍進のキッカケとなったのは1856年にロシアの鉄道会社との契約を結んだこと。
ロシア パヴロフスクにて開催された演奏会で大成功をおさめ、シュトラウス楽団は金銭的に大きく潤いました。

その後ロシアにて高い名声を得たヨハンは「パヴロフスク宮殿」と親密な関係になり、1856年から1865年まで10年に渡って莫大な報酬を得ることになります。


1862年にはヘンリエッテ・チャルベツキーと結婚。生涯の伴侶を得え、1867年にはパリ万博に出演。さらに同年にはイギリスへ演奏旅行も果たし、代表曲『美しく青きドナウ』を創り上げています。
魔の1870年とアメリカ公演
1870年。快進撃を続けたヨハンに悲劇が訪れます。
この年に母アンナ、弟ヨーゼフ、さらには叔母が次々と死去。精神的に不安定になり、全く作曲が手につかなくなります。
そんな折、妻ヘンリエッテはオペレッタの作曲をヨハンに勧め、ヨハンはこれを機にオペレッタ作曲家として今後は生きることを決意。
『ジプシー男爵』『ヴェネチアの一夜』『ウィーン気質』といった曲を作曲し、オペレッタ作曲家としても一躍有名となります。


また、1872年にはアメリカのボストンにて世界平和記念祭に指揮者として招かれ参加。アメリカ公演においてもヨハンは大成功を収め、以降ボストン・ニューヨークにてコンサートと舞踏会を中心に音楽活動を展開していきました。
ウィーンのみならず、ロシア・アメリカにおいても名声を欲しいままにしたヨハンはまさに音楽界の大スターです。
彼以上に成功を収め続けた作曲家はいないといっても過言ではないでしょう。
富と栄誉を欲しいままとした晩年
1894年には音楽家生活50周年を迎えたヨハンを讃え、祝賀行事が頻繁に行われるようになります。ウィーンの街の至る場所でシュトラウス家を祝賀する演奏が行われ、彼の功績が大々的に讃えられました。



今でこそヨハンシュトラウス2世は、クラシックにある程度詳しい人でなければあまり馴染みのない名ですが、当時の音楽では最高の評価を受けた人物として有名です。
ロマン派屈指の交響曲作曲家ブラームスからは「ベートーヴェンやシューベルトの血を付け継いだ真の作曲家」と評価され、圧倒的なカリスマ性を誇ったワーグナーですらも「自分には決して真似できないモノ」と称賛を送っています。
また、チャイコフスキーやリヒャルトシュトラウスもヨハンの影響を受けたと語っており、このエピソードからも同世代から憧れを持たれる存在であったことが伺えます。


ただ、年老いたヨハンにとって音楽活動による体への負担は大きく、祝賀祭の僅か5年後にヨハンは肺炎のためこの世を去りました。享年75歳。
最後の最後まで圧倒的な人気を誇る作曲家として活躍した偉大なる人物だったと語り継がれています。
葬式には10万人の市民が参列したと言われており、ヨハンがどれほどまでに愛された作曲家だったのかが伺えます。
何故現代において知名度が低いのか?
間違いなくヨハンシュトラウス2世は当時のクラシック界において最強格の存在です。
ただ、悲しいことに「ワルツ」というジャンルが低俗なモノと扱われることが少なくなかったため、彼の評価は死後少しづつ過小評価を受けていきました。
また、当時絶大な人気を誇った「オペラレッタ」が現代においてあまり演奏される機会がないことも、ヨハンの知名度を下げた要因の一つとなっています。
ヨハンシュトラウス2世の女性遍歴
作曲家としてかなり高い評価を得ていたヨハンシュトラウス2世ですが、女性遍歴が多く、3人の女性と結婚したことも有名です。



まず最初に結婚したのは11歳も年上のヘンリエッタ。豊富な財産を持ち、社交界でも花形的存在だったようで、金銭的にもヨハンをサポートしたようです。
ヘンリエッタとの生活は長く続きましたが、最後はヘンリエッタの容姿の衰えにヨハンが冷めてしまい、浮気を重ねた挙句、そのままヘンリエッタは死んでしまいます。
その後すぐに27歳年下のアンゲリカと結婚しますが、価値観が合わず、最後は老いぼれと呼ばれ、ヘンリエッタの時とは逆に浮気をされ離婚。
3人目の妻でも懲りずに26歳のアギーレと結婚しますが、過去の過ちの教訓からか今回は無事幸せな結婚生活を送れたようです。
アギーレとの結婚の際には国籍と宗教まで変えてしまうほどヨハンはアギーレに入れ込んでいたという記録が残されています。
ヨハネス・ブラームス(1833〜1897)


ヨハネス・ブラームスはベートーヴェンの後継者として古典主義的な音楽を多岐にわたって残した人物です。
ハイドン・モーツァルト・ベートーヴェンといった古典派の作曲家を崇拝しており、ロマン派の作曲家の中で最も古典派に近い存在と称されました。
ベートーヴェンの10番目の交響曲と言われるほどの名声を獲得した「交響曲 第1番」や「ヴァイオリン協奏曲 二長調」を中心に、交響曲・管弦楽・室内楽曲といったジャンルにて大きな成果を挙げています。
性格に関しては完璧主義であり、気にくわない曲は容赦なく破り捨てたといわれています。特にまだ未熟であった10代の時に作曲した曲は殆ど破棄されており、現存していません。
57歳の時には自身の衰えから作曲家としての引退を考えましたが、その際に「遺書」まで書き、手稿を整理していたというエピソードも残されています。
とにかくストイックで、頑固。作る曲は超保守。それがブラームスという人物です。
ブラームスはドイツ・ハンブルクにて生まれ、コントラバス奏者であった父やピアノ教師であったオットー・フリードリヒ・ヴィリバルト・コッセルから手ほどきを受け、幼少期からその才能を開花させていきました。
10歳の時には早くもピアノ奏者としてステージに立ち、本格的に音楽の勉強をするためエドゥアルト・マルクスゼンに師事しますが、実家が貧しかったため、レストランや居酒屋でのピアノ演奏によって日銭を稼いでいたといわれています。


その後、一時はピアニストとしてプロを目指そうとした時期もありましたが、20歳になる前には自分の才能に見切りをつけ、作曲に専念。
ヴァイオリニスト「ヨーゼフ・ヨアヒム」作曲家「シューマン」「リスト」といった名だたる音楽家と交流を深め、自らの音楽性をより高めていきました。
特にシューマンとの相性は非常によく、公私に渡って親しい関係を続けたという記録が残っています。
1857年からはデトモルトの侯国宮廷にて音楽家として勤務。1862年からはウィーンに移住し本格的に作曲家として活躍します。
以後、ブラームスはウィーンにて精力的な作曲活動を行い、1897年4月3日に肝臓癌によってこの世を去るまで同地にて過ごしました。(没63歳)
ロマン派の作曲家は様々な国を跨いで活動した人物が多数いますが、ブラームスは生涯ウィーンにて古典主義を継承した楽曲を残し続けたことで知られています。
ブラームスが残した代表曲
1868年『ドイツ・レクイエム』
1876年『交響曲第1番』
1877年『交響曲第2番』
1878年『ヴァイオリン協奏曲 ニ長調』
1883年『交響曲第3番』
1885年『交響曲第4番』
1891年『クラリネット三重奏曲』
1891年『7つの幻想曲』
1894年『2つのクラリネットソナタ』
1896年『4つの厳粛な歌』
ご覧のように、彼が残した有名曲は「交響曲」に集中しています。
というのも、ブラームスはハイドン・モーツァルト・ベートーヴェンといった古典派の作曲家を崇拝しており、ロマン派の作曲家の中で最も古典派に近い存在とされていたからです。
『交響曲第1番』においてはベートーヴェンの10番目の交響曲と言われるほどの名声を獲得。交響曲第4番においてはバッハの「カンタータ第150番の主題」を応用し、古き良きバロック音楽の雰囲気をロマン派時代において再現しました。
これらの事から分かるように、ブラームスはロマン派に生きながらも超保守派の作曲家です。
バッハ・ベートーヴェンが紡いできた構造的な音楽を忠実に継承しているブラームスが3大Bと呼ばれるようになったことはごく自然のことのように思えます。
サン=サーンス(1835〜1921)


サン=サーンスはパリに生まれ、フランスの作曲家として活躍したロマン派作曲家です。
幼少期からベートーヴェンやモーツァルト、ハイドンといった古典派音楽に興味を抱き続けてきたサン=サーンスは、フランスの作曲家としては珍しく「古典的な音使い」を得意とする作曲家として活躍しました。
音楽センスだけでなく、天文学・生物学・絵画といったあらゆる分野に精通してきた彼は「構造的な音楽」を好み、ピアノ曲・室内楽・交響曲を中心に古典派時代の音楽性を彷彿させる作品を多岐にわたり生み出します。
代表曲は「序奏とロンド・カプリチオーソ」「交響曲第3番 オルガン付き」「動物の謝肉祭」など。
一般的な知名度は低めですが、良い曲が多いです。
サン=サーンスはモーツァルトと並ぶ神童として若くして頭角を現した早熟な作曲家です。
2歳からピアノを始め、3歳から既に作曲の勉強を始めています。
13歳になる頃にはパリ音楽院に進学。作曲分野では16歳にして交響曲を既に書き上げ、オルガニストとしてはパリでもトップクラスの実力者と呼ばれるようになります。


パリ音楽院を卒業したサン=サーンスはマドレーヌ教会のオルガニストを約20年間勤めながら、多岐にわたるジャンルの作曲に果敢に挑戦し、数々の名作を残します。
また、フォーレらと共に国民音楽協会を設立し、フランス音楽の振興に努めたエピソードも有名です。
フランス系の作曲家といえば「ドビュッシー」「ラヴェル」「サティ」といった美しいフランス和声を活用した印象派のイメージが強いと思います。
月の光や亡き王女のためのパヴァーヌ、水の戯れ、ジムノペディといった曲はまさにフランス音楽の代表作です。
しかし幼少期からベートーヴェンやモーツァルト、ハイドンといった古典派音楽に興味を抱き続けてきたサン=サーンスは、フランスの作曲家としては珍しく「古典的な音使い」を得意とする稀有な存在でした。音楽センスだけでなく、天文学・生物学・絵画といったあらゆる分野に精通してきた彼は「構造的な音楽」を好み、ピアノ曲・室内楽・交響曲を中心に古典派時代の音楽性を彷彿させる作品を次々と世に放ちました。
ただ、いくら優れた音楽を作り上げても需要がなければ評価されないのが世の摂理。
サン=サーンスの音楽性はフランスの音楽性とは若干かみ合わず、神童と呼ばれるほどの実力を持ちながらも中々評価されない時期が続きます。
それはドビュッシーやラヴェルが全盛期を迎えた時期においても変わらず、音楽界への功績からサン=サーンスへの評価が上がり始めても、若手からは絶望的に古臭い曲と批判されました。
古典派の良さを取り入れた古典的な音楽性こそが彼の個性なのですが、当時のフランス音楽界ではその作曲スタイルは時代遅れと呼べるものだったのです。


普通は時代に合わせて自分の作曲スタイルを変えていくのが創作者としてのあるべき姿ですが、頑固で辛辣な性格であったサン=サーンスは生涯作曲スタイルを変えることなく、86歳で生涯を閉じるまで古典的な作曲スタイルを貫き通しました。
しかしながら、彼の音楽が当時全く評価されていなかったわけではなく、57歳でケンブリッジ大学から名誉博士号を贈られ、晩年78歳の時にはフランスの最高位勲章であるレジオンドヌール勲章を贈呈されています。
フランスの作曲家としては賛否両論がある人物でしたが、音楽界に大きな功績を残した偉人であることには違いありません。
ピョートル・チャイコフスキー(1840〜1893)


メルヘンチックな曲調から現代においても人気が高いチャイコフスキー。
彼は多岐に渡る作品を作り上げ、バレエ音楽「くるみ割り人形」「白鳥の湖」といった名曲を世に残した有名作曲家です。
メロディーメーカーとしての高い才能を持っていたこともあり、現代においても圧倒的な知名度を誇ります。
美しく繊細なメロディーは弦楽器との相性がよく、ヴァイオリン奏者やチェロ奏者のレパートリーとして演奏される機会はとても多いです。
クラシック音楽家の大半は幼少期から英才教育を受けて育った人物が目立ちます。
しかし、鉱山技師の次男として生まれたチャイコフスキーは専門的な音楽教育を施されることなく育ちました。(趣味としてはピアノを嗜んではいます)
チャイコフスキーが生まれたのはロシア ウラル地方ヴォトキンスク。当時のロシアはオーストリアやイタリア等の欧州国と比較すると音楽が盛んである国とはいえなかったため、音楽家として大成するには不利な環境に生まれたといってよいでしょう。
このような土台からチャイコフスキーはサンクトペテルブルクの法律学校に進学し、卒業後は法務省の職員としてごくごく普通の人生を歩みます。


しかし、21歳の秋に転機が訪れます。
幼少期から趣味として作曲やピアノ演奏を嗜んでいたチャイコフスキーですが、知人から音楽文化の発展のために活動する「帝室ロシア音楽協会(現:サンクトペテルブルク音楽院)」の存在を聞かされます。
音楽への関心を常に抱いていたチャイコフスキーは思い切って帝室ロシア音楽協会に入会。晴れて本格的な音楽教育を受けることができるようになりました。
そして、元々高いポテンシャルを誇っていたチャイコフスキーの才能はここで一気に開花します。
ペテルブルク音楽院を卒業したチャイコフスキーは本格的に音楽の道へ進むことを決意し、安定した法務省職員を辞めて帝室ロシア音楽協会モスクワ支部の音楽教師に就任します。
また、この就任に伴いチャイコフスキーはモスクワに生活の拠点を移しました。


26歳のころには支部から新たに創設されたモスクワ音楽院に音楽理論の教師として招かれ、以後12年間勤め上げます。チャイコフスキーは有名な作曲家ですが、実は彼のキャリアのメインは「音楽教師」だったわけです。
もちろんチャイコフスキーは音楽教師だけでキャリアを終わらせるつもりはありません。
若手の指導を行う傍ら「作曲家」としても活動し、この12年の間に様々な名曲を残しました。
年 | 作品名 |
---|---|
1875年 | ピアノ協奏曲第1番 |
1876年 | 交響曲第4番 |
1877年 | バレエ『白鳥の湖』 |
1877年 | オペラ『エフゲニー・オネーギン』 |
特に注目したいのはバレエ曲『白鳥の湖』。当時のバレエはお世辞にも注目を浴びている音楽ジャンルであるとはいえませんでしたが、チャイコスフキーは以前よりこのジャンルに興味を示していました。
1875年にボリショイ劇場から『白鳥の湖』の作曲を依頼された後はバレエ曲の奥の深さにのめり込んでいきます。


38歳のある日。チャイコフスキーは作曲に専念するために教師の職を辞職しました。
ただ、その後の彼はモスクワで大作の作曲に挑戦するわけでもなく、なぜかヨーロッパの主要都市を転々と渡りあるく引っ越し魔となり、旅人のような生活を約10年も続けます。
なぜこのような生活を送るようになったのか?それはチャイコフスキーが結婚に大失敗してしまったからです。
チャイコフスキーは繊細で内気な性格から人間関係に苦手意識を持っていました。ボロディン、ムソルグスキー、リムスキーといった同時期に活躍した作曲家とも積極的に関わることもせず、1人でいることが多かったのも内気な性格が理由だったといわれています。
しかし、37歳を迎えたチャイコフスキーは「アントニーナ・ミリューコヴァ」という20歳の女性に猛アピールされ、人間関係が苦手なのに半ば強制的に結婚することになってしまいます。
そしてこの選択がチャイコフスキーを苦しめるのです。


アントニーナ・ミリューコヴァはかなり人間性に問題がある人間で、チャイコフスキーは結婚後すぐに彼女に嫌気がさしてしまいました。
すぐにチャイコフスキーは離婚の申し立てをしましたが、アントニーナはそれに応じてはくれず、徐々に彼の精神は蝕まれます。
そんな生活が続いた結果、チャイコフスキーは自殺未遂を起こし、遂には精神病院送りとなってしまいました。
しかし、病院送りになった後もチャイコフスキーはまだ離婚することが出来ず、やむを得ず少しでもアントニーナから逃げるために海外を拠点に作曲活動を行うことを決めます。
これこそが彼が引っ越し魔になってしまった理由です。
最終的には1881年にようやく離婚することができましたが、間違いなくこの結婚によってチャイコフスキーの寿命が縮まったといえます。
悪女との生活を終え、自由の身となったチャイコフスキー。45歳のころに遂にロシアに戻り、モスクワ郊外のマイダノヴォ村に家を借ります。
転居癖が染みついていた為、結局晩年まで転居(移行は近場)を繰り返しましたが、基本的にはロシアの田舎にて作曲活動を続けました。都心で暮らすのに疲れてしまったのかもしれませんね。


チャイコフスキーは晩年に輝きを放った作曲家であり、人気曲はキャリアの終盤に集中しています。この時期に名曲を多く残せた理由としては、無駄な人間関係がなくなったことが挙げられます。
もともと繊細で内気な性格であったチャイコフスキーにとっては教師として教壇に立つよりも、創作活動に集中する方が適していたのでしょう。それにアントニーナと決別できたこともチャイコフスキーに大きなエネルギーを与えました。
つまり、「音楽に没頭できた」ことこそが名曲を世に残せた一番の理由といえます。繊細で内気な人間が人間関係で苦労するのはいつの世でも一緒なのですね。
尚、この時期にチャイコフスキーが作り上げた有名曲は以下の通りです。
年 | 作品名 |
---|---|
1888年 | 交響曲第5番 |
1888年 | バレエ『眠れる森の美女』 |
1891年 | バレエ『くるみ割り人形』 |
1893年 | 交響曲第6番『悲愴』 |
やはり大半の方がもつイメージ通り「バレエ曲」に名作が目立ちます。ピアノ曲や室内楽曲も多数作曲されていますが、人気は圧倒的にバレエ曲の方が上です。
負の時代を乗り越え、音楽家としての自らのキャリアに花を添えたチャイコフスキーでしたが、1890年にその輝きに終止符が打たれます。
これまでずっとチャイコフスキーの活動を支えてくれたフォン・メック夫人に資金援助を打ち切られてしまったのです。
経済的な後ろ盾がなくなったチャイコフスキーは気力も体力もみるみる衰えていき、1893年(53歳)の時にコレラに感染し、その生涯を終えました。
死因については諸説あり、ゲイであることがバレることを恐れて毒を飲んだ説もとも存在します。
真実は謎に包まれていますが、チャイコフスキーほどの才能が若くして失われてしまったことだけは確かです。
アントニン・ドヴォルザーク(1841〜1904)


交響曲第9番「新世界より」があまりにも有名なアントニン・ドヴォルザーク。
ドヴォルザークは国民楽派の大作曲家として多大なる功績を残した作曲家です。美しく、そして「親しみやすいメロディー」を武器に多岐に渡るジャンルで名曲を残しました。
後期ロマン派において時代を大きく動かしたのはワーグナーやドビュッシーかもしれませんが、この時代の作曲家において現代でも幅広く親しまれているのはドヴォルザークでしょう。
また、ドヴォルザークは死後評価された作曲家ではなく、生前から数々の名誉を獲得した成功者です。
クラシック音楽家として大御所に位置付けられる人物として知られます。
ドヴォルザークが生まれたのはチェコ・プラハの郊外にある「ネラホゼヴェス」という村。実家は肉屋と宿屋を営む貧しい家庭でしたが、アマチュア音楽家として活躍していた父や伯父の影響を受け、ヴァイオリンを始めます。
その後ドヴォルザークは9歳でアマチュア楽団のヴァイオリン奏者に抜擢されるほどの音楽的才能を発揮。村の音楽家として、人気を博しました。
しかしながら両親はドヴォルザークを音楽にするつもりは一切なく、小学校を卒業することなく肉屋の修業に行かされてしまいます。


ただ、ドヴォルザークの運命を変える出会いが修行先のズロニツェという街にはありました。
なんと街の職業専門学校の校長(リーマン)は指揮者兼作曲家でもある人物であり、ドヴォルザークの才能を見込んだ彼から、演奏から作曲に至るまで音楽の基礎を叩き込んでもらえたのです。
その後、一時は金銭的に苦しくなった実家に呼び戻されそうにもなりますが、伯父とリーマンの説得により、それを回避。
さらには伯父の援助によりプラハのオルガン学校に進学を果たします。
貧しい家の生まれではありましたが、こうしてドヴォルザークは一流音楽家へのスタートラインに立つことが叶ったわけです。
オルガン学校卒業後はヴィオラ奏者・音楽教師として活動を続け、それと同時に作曲活動にも本格的に始めます。
この時期のドヴォルザークは試行錯誤を繰り返しながらもオペラ『王様と炭焼き』、賛歌『白山の後継者たち』といった代表作を残し、私生活ではアンナ・チェルマーコヴァーという女性と結婚。公私ともに充実した日々を送ります。


尚、作曲家として名声を博し始めた後は、奏者を辞して作曲家に専念したようです。
当時のドヴォルザークはワーグナーの音楽を熱心に研究するワグネリアンでしたが、少しづつその影響は薄れていき、次第に交響曲が作曲活動のメインとなります。
30歳を超え、作曲家として成熟を見せたドヴォルザークは交響曲第3番、第4番といった代表曲を次々と世に放ち名声を博します。
この頃からドヴォルザークはオーストリア政府から奨学金を受け取れるようになり、35歳の時には弦楽五重奏曲ト長調にて芸術家協会芸術家賞を獲得。その後は37歳の時に作曲した『モラヴィア二重唱曲集』がブラームスの目に止まり、以後交流を深めるようになりました。
ブラームスに才能を見いだされたドヴォルザークは一気に一流作曲家の仲間入りを果たし、『スラヴ舞曲集』『弦楽四重奏曲第10番』『チェコ組曲』等の名作を発表。チャイコフスキーやグリークといった国民楽派が人気を博していた音楽界の影響もあり、この頃からドヴォルザークはチェコの国民楽派の作曲家として評価されるようになります。


国民楽派の人気作曲家となったドヴォルザークはオペラの公演・複数回にも及ぶイギリスでのコンサート・ベルリンでの指揮者デビューなど、多忙な音楽家生活を送る傍ら創作活動もより一層力を入れ、交響曲第5番、交響曲第8番といった作品を発表。
1889年にはオーストリア三等鉄王冠賞、1890年にはチェコ科学芸術アカデミーの会員に推挙、1890年秋にはプラハ音楽院教授就任を受諾し、遂に教授にまで上り詰めました。
ドヴォルザークは親ブラームスであったことから、ワーグナーの影響が強いドイツでの人気は獲得できませんでしたが、祖国チェコやイギリスといった国々では圧倒的な人気を誇るようになり、まさに国民的スターと呼べる存在となります。
そんなドヴォルザークに転機が訪れたのは1891年春。彼が50歳の時でした。ニューヨーク・ナショナル音楽院の創立者・理事長ジャネット・サーバーから就任依頼が舞い込みます。
祖国を離れて活動することにドヴォルザークは当初乗り気ではありませんでしたが、高額年棒と熱い説得に最後は折れ、アメリカに渡ります。


当時のアメリカは、音楽新興国と呼べる国。音楽院自体もまだ体制が整っているとは言えない状況でした。
そんな状況下でドヴォルザークは1892年10月から講義を開始。
激務に追われながらも異国の地アメリカにて欧州及びチェコの風を吹き込みました。
アメリカで活動した期間は1891年〜1895年の約5年間程でしたが、ドヴォルザークがアメリカに残した功績は大きく、そしてアメリカから受けた影響も大きかったとされています。
そして、それを象徴とする作品こそが「交響曲第9番 新世界より」。
1893年に5月24日に完成した誰もが知るこの名曲はドヴォルザーク本人が「これまでの作品とは異なり、わずかにアメリカ風である」という言葉を残しているほど、アメリカの影響を受けた作品だといわれています。
アメリカから帰国したドヴォルザークはボヘミアこそ自分のいる地だと思い定め、以降はこの地において落ち着いた環境下の元、作曲に精を出すようになります。
この時期に作曲された主な名曲は以下の通り。
1895年 弦楽四重奏曲第14番
1896年 交響詩『水の精』『真昼の魔女』
1899年 オペラ『悪魔とカーチャ』
1900年 オペラ『ルサルカ』
晩年に残した作品は標題音楽やオペラが中心。交響曲がどうしても目立つドヴォルザークですが、意外とオペラでも人気を博し、結果を残しています。
また、晩年のドヴォルザークは功績を認められ、数多くの名誉を受賞しました。
ウィーン楽友協会の名誉会員に推挙、ブラームスしか得ていなかった芸術科学名誉勲章の授与、オーストリア貴族院による終身議員任命。
まさに作曲家として、音楽家として、文句のつけようがない功績を残しました。
最後を迎えたのは62歳のこと。多忙による持病の悪化も相まって、脳出血によって意識を引き取ったとされています。
ドラマティックなエピソードはなくとも、堅実に努力を重ね、大作曲家となったドヴォルザーク。
クラシック音楽家としてはトップクラスに幸せな生涯を歩んだ人物といっても良いかもしれません。
エドヴァルド・グリーグ(1843〜1904)


グリーグは19世紀中盤から20世紀の頭にかけて国民楽派の作曲家として活躍し、民族音楽から着想を得た美しい楽曲の数々を残した人物です。愛妻家としても知られており、妻であるニーナと共に音楽家として充実した生涯を送りました。
代表曲は《ペール・ギュント》第1組曲 「朝」や第1組曲 「山の魔王の宮殿にて」。地味といえば地味な作曲家ですが、一流の作曲家であったことは間違いありません。
また、グリーグは小柄で威圧感のない人物であり、生涯を終えるまで『手のひらサイズの小さな蛙の置物』と『子豚のぬいぐるみ』を大切にしていた可愛らしい一面を持っていたようです。このような優しい心を持った人だから夫婦ずっと仲良しに暮らせたのでしょう。
グリーグはノルウェー(当時はスウェーデン統治下)の西岸ヴェストラン地方の中流家庭に生まれた人物です。彼は音楽好きであった母の影響を受け、幼少期からピアノ演奏に親しんできました。
グリーグが本格的に音楽教育を受け始めたのは15歳の時。ノルウェー初の国民的スターと呼ばれたヴァイオリニスト オーレ・ブルの勧めにより、メンデルスゾーンが創立したライプツィヒ音楽院にてピアノと作曲を学びます。真面目な性格であったグリーグは真摯に音楽と向き合い、非常に優秀な成績を収め同学院を卒業しました。
その後20歳になったグリーグは北欧の有名作曲家ニルス・ゲーゼに師事するためにデンマーク コペンハーゲンに移住。作曲家としての第一歩を踏み出しました。


コペンハーゲンでの暮らしにも慣れ始めたころ、彼は幼いころに仲良くしていた従妹ニーナ・ハーゲルップと再会します。ニーナはプロのソプラノ歌手に成長しており、「音楽」という共通点があった2人は意気投合します。
そして、着々と距離を縮めていった2人はグリーグが24歳の時に結婚。穏やかなグリーグの性格もあってか、非常に仲睦まじい夫婦生活を送りました。
最初は音楽家という不安定な職業であることからニーナの両親には結婚を反対されていましたが、グリーグの努力により次第に認められていったようです。
また、この結婚は作曲家としてのグリーグにも良い影響を与え、ニーナに向けて書いた歌曲「君を愛す」といった数々の名曲が生まれました。


彼は才能を徐々に才能を発揮し、24歳の時にオスロ(当時はクリスチャニアという街)のフィルハーモニー協会の指揮者に就任。グリーグの代表曲である『抒情小曲集』の第1集もこの時期に作曲されています。
また、当時の音楽界において絶大な影響力を与えていたフランツ・リストから高い評価を得たことにより、グリーグとニーナの名声はヨーロッパ中に知れ渡るようになりました。
着々と努力を重ねてきた2人は夫婦揃って音楽家としての成功を掴み取ることができたのです。
オスロでの活動は約10年間続き、数々の名曲の作曲と音楽発展に貢献した後はハルダンゲル地方に移住。
51歳の時には同地方のトロールハウゲンという地に住まいを構え、彼の作曲スタイルの基盤である民族音楽の研究を進めました。
この時期には彼の代名詞である劇音楽ペール・ギュントより「朝」も作曲されており、ドイツ・オーストリアの定番スタイルとは異なる独自の世界観を構築しています。
最後を迎えたのは64歳の時。母国ノルウェーの独立を見届けた後、生まれ故郷のベルゲンにてその生涯を終えました。
グリーグとニーナは最後の最後まで良い関係を築いていたようで、ニーナはグリーグがこの世を去った後もコペンハーゲンにてグリーグが残した音楽の普及に努めたといわれています。
ガブリエル・フォーレ(1845〜1924)


ガブリエル・フォーレはロマン派の終焉とフランス印象派の掛け渡し役となった人物で、美しい室内楽曲の数々を世に残しました。
後世に影響を及ぼす大曲が無かったせいか、ドビュッシー、ラヴェル、サティといった有名作曲家に存在が埋もれがちですが、憂いを帯びた繊細な曲の数々は人気が高いです。
小曲がメインであるため忙しい現代人でも親しみやすく、クラシック初心者向きの作曲家だと思います。
フォーレは1845年にフランスのパミエに生まれ、ニーデルメイエール古典宗教音楽学校にて音楽を学びました。16歳の時にはサン=サーンスからピアノと作曲のレッスンを受け、卒業後はフランス西部の街レンヌ及びパリのマドレーヌ教会にてオルガニストとして活躍を遂げます。
演奏・作曲以外のキャリアとしては、1871年に師でもあったサン=サーンスらとともにフランス国民音楽協会の設立に参加。
1896年にフランス国立音楽・演劇学校の教授にも就任し、若手音楽家の育成に携わりました。(のちにラヴェルの師ともなる)
実にサンサーンスによく似たキャリアの積み方をしてきたフォーレですが、古典的な音楽技法に拘り続けたサンサーンスに対し、フォーレは徐々に独自の音楽性を確立していきます。


フォーレが音楽家として本格的に歩み始めた時代は、既に古典的調性は崩壊しかけていた時代です。多調・無調の音楽が欧州で現れ始め、当時の作曲家はどのような作曲スタイルを取るのか日々試行錯誤が行われていました。
ドイツやオーストリアではワーグナーの影響から無調への流れが活性化し、シェーンベルグによって調性音楽が終焉を迎えます。
一方フランスではワーグナーの音楽性を否定したドビュッシーらの影響からか、完全に無調への転換は行われず、独自のフランス和声が生み出されていくことになりました。
師でもあったサンサーンスはこの流れには乗らず、保守的に古典的な音楽スタイルを貫き通しますが、柔軟なフォーレは無調の良いところは取りいれ、好みが合わない部分は導入を避けるなど、バランスの良い音楽性を展開していきます。
フォーレの音楽は云わば流行と伝統をうまく融合させたスタイルです。
フォーレは柔軟性に長けた作曲家であったため、時期によって作風が若干変化していきます。
まだ調性音楽が市民権を得ていた時期には調性が明確な音楽を中心に作曲。無調・印象派の時代に入っていく頃には曖昧な調性・不協和音を含んだ音使いを駆使した楽曲を作るようになりました。
なお、少しマニアックなところまで踏み込むと、彼は調性を不明瞭にするためにオーギュメントコードを多用したり、2つの共通の音を軸に遠隔調へ一気に転調するテクニックを駆使したり、のちにフォーレ終止と呼ばれる独特な曲の止め方を用いたことでも知られています。
フランス式和声の確立に大きく貢献し、79歳の時に肺炎のためパリで死去しました。
エドワード・エルガー(1857~1934)


エドワード・エルガーは19世紀後半から20世紀にかけて活躍したイギリスの作曲家です。音楽教師でありヴァイオリニストでもあった彼は室内楽曲を中心に美しい楽曲の数々を残しました。
代表曲は「威風堂々」「愛の挨拶」。
特に愛の挨拶はヴァイオリンを弾く方にとっての重要なレパートリーになることでしょう。
エルガーはロウアー・ブロードヒースというイギリスの小さな街に生まれ、楽器商(ピアノ調律師/ヴァイオリニストも兼ねる)であった父ウィリアムからピアノとヴァイオリンのレッスンを受けながら育った人物です。
10歳になるころには作曲を行うほどまでに才能を開花させており、その後もヴァイオリンのレッスンを受けながら、片っ端から音楽理論の本を読み漁って音楽の基礎を学びました。


その後エルガーはライプツィヒ音楽院への留学を目指し、勉強に励みましたが、エルガーの実家には留学をサポートする経済力がなく、敢え無くドイツ行きを断念。
結局地元で事務職として勤務することになりました。
ただ、退屈な事務員としての生活にスグ嫌気が指してしまったエルガーは事務職を辞め、音楽家としての活動を展開します。
当初はソロヴァイオリニストを目指していましたが、同世代の一流奏者との差を痛感し、作曲家・指揮者に転向。
ポウィックという街にてウスター・アンド・カントリー精神科養護施設付属楽団の指揮者の職に就き、指揮者としての傍ら作曲家としての活動も精力的に行いました。


その後エルガーは盲学校にてヴァイオリンの教授職につき、自らも管弦楽団に参加しヴァイオリンを演奏するといった音楽活動を展開。32歳の時には8歳年上のキャロライン・アリス・ロバーツと結婚しました。
このアリスに婚約の贈り物として捧げた曲こそ、ヴァイオリンとピアノのための小品『愛の挨拶』というわけです。
アリスは韻文作家としても活躍した人物で、エルガーの秘書兼マネージャーとして彼を支えたといいます。
また、エルガーはクラシック作曲家の中でも愛妻家として知られており、生涯に渡って妻アリスと仲睦まじく過ごしたという記録も残っています。


エルガーはアリスの勧めによって拠点をロンドンに移し、以後作曲活動に専念。
毎日のように2人でコンサートに出向いて一流のオーケストレーションを学び、ヴァイオリン作品やオルガン曲、室内楽曲を勉強し、実力を磨いていきました。
しかし、ロンドンではなかなか目が出ず、1891年に地元へ帰郷。
楽団の指揮や音楽教師をして生活費を稼ぐ生活に戻りました。
ただ、ロンドンでは名声を得ることが出来なかったエルガーですが、ミッドランズという街で行われた合唱祭に曲を提供したことをキッカケに徐々に人気が高まっていきます。
1892年には『弦楽セレナード』、1897年には『3つのバイエルン舞曲』を創り上げ、地元にて高い評価を獲得。
42歳の頃に作り上げた『エニグマ変奏曲』がロンドンにてドイツの指揮者ハンス・リヒターの指揮により初演され、一躍イギリスの人気作曲家の仲間入りを果たします。
『エニグマ変奏曲』によってエルガーの名は一気にヨーロッパ中に広がり、やがてウィーン、パリ、ニューヨークといった世界有数の年でもエルガーの曲が公演されるようになります。
そして、1901年には彼の代表曲である威風堂々1番が誕生。
この曲が絶大な人気を獲得し、イギリスの第2国歌と称されているほどの栄誉を得ます。
1904年3月にはロイヤル・オペラ・ハウスにおいて単独音楽祭が開催されるほどの人気を博すようになり、世界的な作曲家と呼べるほどの存在に上り詰めました。


その後もエルガーの人気は留まることを知りません。
交響曲第1番はわずか1年の間にヨーロッパ各地での演奏回数が100回を超え、フリッツ・クライスラーからの委嘱によって作曲された『ヴァイオリン協奏曲』も絶大な人気を博しました。
その勢いのままに1912年には再びロンドンへ移住を果たし、作曲活動を再開。
革新的作曲家として、若手の見本となり続けました。
威風堂々や交響曲第1番、ヴァイオリン協奏曲によって人気の絶頂を迎えたエルガーですが、その後第一次世界大戦が勃発した時期から大ヒット曲が作れなくなり、加えて自身が体調不良になったことから一時の勢いはなくなります。
さらに大戦が終わり1920年代に入ると、エルガーの音楽は最先端とはいえなくなり、公演される機会は激減しました。
その後、第一線から退いたエルガーはロンドンから郊外へ再び身を拠点を移し、静かな環境にて細々と作曲活動を続けます。
しかし、1920年4月7日。作曲家エルガーとしての人生に終止符を打つ決定的な出来事が起こりました。
それは妻アリスが肺がんでこの世を去ったことです。
常に行動を共にするほど仲が良かった妻を失ったことでエルガーの創作意欲は一気に消失。
以降大ヒット作を生み出すことはありませんでした。
老いて独り身となったエルガーは田舎でのドライブ、競馬、裏庭での科学実験といった趣味に力を入れるようになり、音楽活動では作曲よりも演奏やレコーディングを中心に活動したと記録が残されています。
とはいえ、一切作曲をしなかったわけではなく、劇音楽『達男ブランメル』組曲『子供部屋』といった作品を残しました。
ただ、これらの曲で高い評価を得ることはかなわず、最後の作品となった愛犬をモチーフにした小品『ミーナ』を作曲した後、1934年2月23日に大腸がんによって天寿を全うしました。
76年の生涯を閉じたエルガーは妻の隣に埋葬されたといいます。
プッチーニ(1858~1924)


ジャコモ・プッチーニはイタリアの古都ルッカに生まれたオペラ作曲家で、『トスカ』『蝶々夫人』『トゥーランドット』という大人気オペラを作り上げた人物です。
後期ロマン派から近代音楽へ移り変わる狭間の時代に活躍し、メロディーの親しみやすさを武器にイタリア最高のオペラ作曲家と称されるほどの名声を博しました。
プッチーニが活躍した時代は後期ロマン派から近代音楽へ移り変わる狭間の時代。
ルッカの宗教音楽家の家系に生まれたプッチーニは、幼いころから本格的な音楽教育を施され、作曲家としての階段を着々と登っていきました。


当初は宗教音楽家の道に進むための教育を受けますが、ロマン派屈指のオペラ作曲家「ヴェルディ」の作品に感化され、成人を迎える前には方向性をオペラにシフト。
1880年から1883年までミラノ音楽院で勉学に励み、その後ソンゾーニュ・コンクールのオペラ部門にエントリーした『妖精ヴィッリ』が舞台化されたことをキッカケに、一族としては唯一のオペラ作曲家としてデビューを果たすことに成功します。
※父親も宗教音楽家でしたが、プッチーニが5歳の時に亡くなってしまったため、主に伯父から音楽の手ほどきを受けたようです。
33歳になる頃には、トスカーナ州にある「トッレ・デル・ラーゴ」という地に別荘を購入し、本格的な創作を開始します。
その後は 2作目『エドガール』3作目『マノン・レスコー』の公演をさせ、舞台作家ルイージ・イッリカとジュゼッペ・ジャコーザと協力体制を確立。
イタリア屈指のオペラ作曲家としての評価を決定付ける下記3つのオペラが誕生します。
『ラ・ボエーム』・・全4幕で構成されるプッチーニの傑作。ロマンティックなストーリーからイタリアオペラにて最も演奏される機会が多い作品といわれている。
『トスカ』・・暴力的なストーリー、主役3人が死ぬという衝撃的展開が話題に。
『蝶々夫人』・・没落藩士令嬢の蝶々さんとアメリカ海軍士官ピンカートンとの恋愛の悲劇を描いた2幕構成のオペラ。日本の長崎が舞台となっている。
蝶々夫人の初演こそ散々な評判となりましたが、ラ・ボエームとトスカは初公演から人気を博し、プッチーニは一躍イタリアオペラ界の新星として高い評価を受けるようになります。
なお、蝶々夫人に関しても後に手直しを施し、最終的には代表作として認知されるまでに評価が見直されています。
プッチーニのオペラが評価された大きな要因は、メロディーの親しみやすさにあります。
緻密な描写的表現に長けていたこと、フランスにて流行した印象主義音楽の和声を取り入れたことも人気を博した理由ですが、それ以上に覚えやすく口ずさみやすいメロディーを生む才能にプッチーニは優れていました。
玄人が聴いても自然に聴こえる旋律、初心者でも親しみやすいフレーズ感。
いつの時代においても万人受けするメロディーメーカーは絶大な人気を獲得するわけです。
ラ・ボエーム、トスカ、蝶々夫人を書き上げた後のプッチーニは自動車事故で骨折したり、女性関係のスキャンダルで妻エルヴィーラが起訴されるという不幸に見舞われたため、執筆スピードが大きく落ちます。
ただ、それでも1910年には人気作『西部の娘』を公演。1917年においても喜劇『つばめ』を作り上げ、人気をキープさせることに成功します。
1918年(60歳)には恐劇『外套』悲劇『修道女アンジェリカ』笑劇『ジャンニ・スキッキ』の3曲からなる連作「三部作」を発表し、作曲家としての集大成を飾りました。
最後を迎えたのは1924年(65歳)の時のことであり、重度のヘビースモーカーであったことから1923年に喉頭癌が発覚。翌年に合併症を発症し、この世を去りました。
なお、有名なトゥーランドットに関してですが、この作品は実は未完成のまま残された作品で、友人フランコ・アルファーノが補筆し、世界に発表されました。
ただ、アルファーノが補作した部分は結局大幅に短縮され、現在はカット版が公演されることが殆どです。
マーラー(1860~1911)
グスタフ・マーラーは後期ロマン派の時代にウィーンで活躍した作曲家です。有名曲の殆どが交響曲であることから、交響曲の大御所として今尚崇め続けられています。
また、マーラーはトップ指揮者としても活躍した人物であり、当時の音楽において大きな影響力を持っていたといえます。
マーラーは1860年7月7日に現チェコのカリシュチェに生まれ、酒造業の行商人である父と病弱な母によって育てられました。
夫妻の間には14人の子供が産まれており、マーラーはその第2子として育てられましたが、そのうち7名は幼少時に病気で死亡しており、過酷な幼少期を過ごしたようです。
マーラーの父は暴力的な人間であり、家庭は常に暗い雰囲気に包まれていたそうです。平和で温かい家庭とは真逆な地獄のような家庭で育ったため、マーラーの音楽性はどこか憂いを帯びています。
音楽家としては4歳からアコーディオンやピアノに親しみ、10歳にしてイーグラウ市立劇場での音楽会に出演。
15歳でウィーン楽友協会音楽院に入学し、演奏解釈賞・作曲賞を受賞するなど輝かしい成績を残して卒業します。その後23歳にしてカッセル王立劇場の楽長に就任。プラハ ドイツ劇場の楽長、ライプツィヒ歌劇場の楽長を経由し、マーラーは28歳でブダペスト王立歌劇場の芸術監督にまで上り詰めました。
家庭こそ父の暴力・家族の死と隣り合わせの過酷な環境でしたが、音楽家としてのキャリアは順風満帆に歩んだ作曲家といえるでしょう。
ブダペスト王立歌劇場の芸術監督となった28歳の時に代表作である『交響曲第1番ニ長調』の第1稿が完成させ、以降マーラーは精力的に交響曲を創り上げていきます。
34歳『交響曲第2番ハ短調』
36歳『交響曲第3番ニ短調』
38歳『交響曲第4番ト長調』
41歳『交響曲第5番嬰ハ短調』
この間に就いた役職は「ハンブルク歌劇場第一楽長」「ウィーン宮廷歌劇場第一楽長」など。
42歳となった1903年には、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世から第三等鉄十字勲章を授与され、翌年には「創造的音楽家協会」の名誉会長に就任。
まさに音楽家としてはエリート街道を歩み続けました。
マーラーは作曲家として高い評価を得た人物ですが、指揮者としても類を見ない才能を発揮しました。
彼の音楽性を象徴からもにじみ出ている「完全主義」。そして激しい身振りと小節線に囚われない指揮法。
マーラーは指揮者として多くの改革を実行し、この時代のトップ指揮者と呼ばれるほどの存在にまで上り詰めました。


マーラーは指揮者・作曲家として活躍した人物ですが、特に趣を置いていたのが生涯に渡って作られた「交響曲」の作曲です。
マーラーの交響曲の特徴はとにかく規模が大きく、長いこと。
10番まである交響曲の中で最も短いのは4番の約55分、一番長い3番は90分にも及びます。また、「諸主題というものは、全く異なる方向から出現しなければならない。」といった持論から、楽曲を複雑にする傾向もありました。
また、マーラー音楽性は子供の頃の地獄のような家庭環境の影響からか、「不安・苦悩」といったニュアンスが強く、一言で言うと暗いです。
長く、難解で暗い大規模な交響曲。
簡潔に言うとこれがマーラーの個性なのですが、クセが強いため、賛否両論があります。
交響曲の大作曲家として名声を得たマーラーですが、47歳の時に心臓病と診断され、以降体調を崩すことが多くなります。
幼少期のトラウマによる強迫症状と神経症状も強くなり、この時期のマーラーは満身創痍の状態が続いたようです。
とはいえ、作曲のペースは決して落ちることはなく、ヨーロッパとニューヨークを行き来する生活を続けながら『交響曲第8番変ホ長調』『交響曲第9番ニ長調』を作曲。
ニューヨーク・フィルハーモニックの指揮者に就任するなど、幅広い活躍を見せました。
しかし、1911年2月に感染性心内膜炎と診断され、同年5月18日に敗血症によって死去。50歳という若さでマーラーはその生涯を閉じました。