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近現代作曲家(フランス/新古典派含む)の特徴や生涯を年代別に解説

近現代音楽の特徴と作曲家

西洋クラシック音楽史は大きく分けるとバロック・古典派・ロマン派・近代音楽に分類されます。

それ以前の音楽はルネサンス音楽、それ以降の音楽は現代音楽と呼ばれますが、一般的にクラシック音楽として認知されているのは「バロック〜近現代音楽」の時代において作曲された曲です。

この記事では近現代音楽の時代に活躍した、これだけは抑えておきたいクラシック作曲家を年代別に一覧にしてみました。

クラシックを専門としない弦楽器製作家や演奏家、さらには作曲をされている方。この機会にクラシック作曲家について一緒に勉強してみませんか?

目次

近代音楽の作曲家

ロマン派にて頂点を迎えたクラシック音楽。マンネリを迎えた後に革新を求めるのはどの時代においても同じです。

ワーグナーが無調への扉を開いた後、フランスではドビュッシーを中心とする印象主義が台頭し、ドイツにおいてはシェーンベルグが12音技法を確立させました。

以降、音楽は「調性感のない音楽」が主流となり、一般的に連想されるクラシック音楽は終焉を迎えます。

尚、これまで目立つ存在ではなかったロシアからラフマニノフやプロコフィエフといった作曲家が輩出されたことも、この時代の特徴です。

無調音楽 現代音楽

民族主義音楽の風潮

バロック時代のバッハから始まり、古典派ベートーヴェンを経由し、シューマンやブラームスといったドイツロマン派へと進化を遂げてきたクラシック音楽。その歩みからは「対位法」「古典的和声」「ソナタ形式」といったあらゆる伝統的な決まりが生まれました。

伝統的なドイツクラシック音楽では、定められた決まりのなかで「人間の心の奥底に触れることを目的」とした音楽が作られ続けたわけですが、作曲家によってはその堅苦しさ、束縛感が好きに疑問を持つものもいました。

そして、生まれたのが民族主義音楽の風潮です。

この風潮は伝統的なクラシックよりも、自分の国の音楽を大切にした音楽を作ろうよ!という風潮であり、ロシアではムソルグスキーやリムスキー=コルサコフたちが、チェコではスメタナ、北欧ではシベリウスやグリーグといった作曲家がそれぞれの国の特徴を取り入れた音楽を生みだしました。

特に印象派主義の時代に活躍したラヴェル、ドビュッシー、フォーレといった作曲家が作り出した音楽は、その繊細な美しさから人気があります。

クロード・ドビュッシー(1862〜1918)

ドビュッシー クラシック作曲家

長調・短調にとらわれず多種多様な旋律を駆使する「広い意味での無調」を作り上げたドビュッシー。自然的な印象を直観的に音で形象化しようと試み、風景画のような作風を確立しました。

代表曲は「月の光」「夢想」「」など。ジャズやミニマルミュージックの誕生にも影響を与えた偉大なる人物です。

ただ、キャリア後期は無調系の作風にシフトしたため、有名曲はキャリア前半に集中しています。

ドビュッシーはフランスの作曲家。1862年にパリ西部に位置するサン=ジェルマン=アン=レーに生まれ、主に「1884年-1916年」の期間において作曲活動を行った人物です。

クラシック音楽史としては印象主義の作曲家に分類され、同時期に活躍したラヴェルらと共にフランス音楽界の一時代を築き上げました。

彼の音楽性の特徴は長調・短調にとらわれず多種多様な旋律を駆使する「広い意味での無調」。シューマンやブラームスといった感情表現を主とするロマン派音楽に対して、自然的な印象を直観的に音で形象化しようと試みました。

その結果生まれたのが風景画のようなドビュッシーの作風です。

印象派 風景画

ドビュッシーは同じフランス作曲であるラヴェル・サンサーンス・フォーレとよく比較されますが、伝統的な作曲技巧を少なからず重視した彼らとは異なり、ドビュッシーはかなり革新的な曲作りを進めたことで知られています。

実際に代表作である「月の光」や「海」などは、既存の形式や和声進行を逸脱して作られており、これまでの常識を打ち破っています。

以上を踏まえ、ドビュッシーは20世紀を生きた作曲家としては、最も音楽界に影響を与えた人物といっても過言ではありません。

特にジャズに与えた影響力は大きく、ガーシュウィン、ジャンゴ・ラインハルト、デューク・エリントンといった名立たるアーティストに影響を与えています。

尚、ドビュッシーは自身のことを印象派と呼ばれることを嫌っています。
もともと印象派という言葉はクロード・モネの作品『印象・日の出』が由来となって生まれましたが、実はドビュッシーは絵画ではなく、象徴派の詩人に信奉していました。

「自分は象徴派の作曲家である」といったエピソードもあり、印象派と分類されるのはどうやら心外だったようです。

ドビュッシーの幼少期は目立つエピソードはなく、クラシック音楽家になるための土台を順風満帆に築きあげてきました。

9歳の時にアントワネット・モテ・ド・フルールヴィル夫人から音楽の手ほどきを受け、10歳にしてパリ音楽院に入学。名だたる音楽家たちからピアノ、作曲、伴奏、ソルフェージュといった音楽の基礎を学び、16歳の時にドビュッシーの最古の作品とされているピアノ曲『フーガ』(L番号なし)を作曲します。

ちなみに入学当時はピアニストを目指し、学内コンクールで結果を残し続けていたドビュッシーですが、「1位」になることができなかったため、途中から作曲家に目標を変更しました。
プライドが高いドビュッシーらしい潔い選択です。

作曲

作曲家を志したドビュッシーは20歳からフランスの若手作曲家の登竜門「国民音楽協会」のコンクールに参加し、20歳:予選落ち、21歳:二等賞、と段階を踏み22歳の時にローマ大賞を受賞します。

ローマ賞を受賞するとローマへの留学が与えられるため、22歳〜24歳にかけてはローマにて生活をします。ただ、イタリアの風土との相性が悪かったため、予定よりも早く留学を切り上げてパリに戻りました。
帰国後27歳からは国民音楽協会に所属し、人脈を形成しつつ作曲活動を続けます。
この時期に作曲された主な曲は以下の通りです。

1890年『ピアノと管弦楽のための幻想曲』
1891年 ベルガマスク組曲 第3曲 月の光
1893年『選ばれた乙女』『弦楽四重奏曲』
1899年『牧神の午後への前奏曲』
1900年『ビリティスの歌』『夜想曲』
1904年『版画』
1905年 交響詩『海』、ピアノ曲集『映像 第1集』
1910年『前奏曲集 第1巻』
1913年 バレエ音楽『遊戯』

パリ音楽院〜イタリア留学時代まではチャイコフスキーやロシア5人組、そしてワーグナーの影響を受けていたドビュッシーですが、詩人ステファヌ・マラルメの影響を受け、徐々に調性に拘らない作曲スタイルに変貌を遂げていきます。
特にワーグナーの音楽性に対しては否定的な見解を述べるようになり、アンチワーグナーと化したのは有名なエピソードです。

印象派作曲家として一世を風靡したドビュッシーですが、第一次世界大戦が勃発した1914年頃から大腸がんに苦しむようになり、その4年後の1918年に55年に及ぶ生涯を終えました。
晩年の4年間では『12の練習曲』『6つの古代碑銘』『白と黒で』『チェロソナタ』、そして最後の作品となった『ヴァイオリンソナタ』等が挙げられますが、いずれもマイナーな曲として扱われています。

リヒャルト・シュトラウス(1864〜1949)

リヒャルトシュトラウス クラシック作曲家

リヒャルト・シュトラウスは85歳まで生きたオペラ作曲家です。

若き頃はロマン派を代表する作曲家として器楽曲や交響詩を残し、全盛期においては前衛的なオペラを作曲して名声を博しました。

現代においてはやや地味な存在ですが、当時は相当な人気を誇っていたようです。

代表曲である「ヴァイオリンソナタ」「オーボエ協奏曲」といった器楽曲は奏者から高い評価を得ています。

リヒャルト・シュトラウスはバイエルン王国ミュンヘンにて生まれ、ホルン奏者であった父の元、音楽の英才教育を受けて育ちましたドイツの作曲家です。

若くして頭角を現し、21歳にしてマイニンゲン宮廷楽団の指揮者に就任した経歴から、クラシック作曲家としては堅実な道を歩んできた人物だといえます。

ロマン派音楽

そんなシュトラウスの作曲スタイルはかなりの保守寄り。モーツァルトやブラームス・メンデルスゾーンに近い伝統を重んじる硬派な音楽を作っていました。

ただ、その作曲スタイルはヴァイオリン奏者アレクサンダー・リッターとの出会いによって一変します。

アレクサンダー・リッターはマイニンゲン宮廷楽団のコンサートマスター。指揮者に就任したシュトラウスとは自然と密接な関係となります。

彼は、若きリヒャルト・シュトラウスを支えると同時に、自身がワーグナーを崇拝する革新派だったことから、ストラウスに対しても革新的な音楽のDNAを吹き込んでいきました。

これによりシュトラウスは徐々に影響を受け、2人の出会いから数年が経つ頃には、保守的な作風から革新的な作風へと変貌を遂げていきます。

『指揮者としてのスタイル』

シュトラウスは激しい身振りにてタクトを振るうダイナミックな指揮スタイルであり、賛否両論を巻き起しながらもミュンヘン、ベルリン及びウィーンの歌劇場でも指揮者を務めました。ただ、全盛期を迎えるころには徐々に落ち着きを見せるようになり、次第に簡潔で落ち着いた指揮を振るうようになったといわれています。

アレクサンダー・リッターとの出会いから僅か4年後には交響詩『ドン・ファン』を作曲。作品には賛否両論が起こりましたが、シュトラウスはこの『ドン・ファン』にて自身の方向性を完全に確立しました。

その後は『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』『ツァラトゥストラはかく語りき』といった作品を残し、指揮者としてもバイロイト音楽祭で『タンホイザー』を指揮するなど大きな名声を博します。

また、私生活では30歳になるころにソプラノ歌手のパウリーネ・デ・アーナと結婚。パウリーネ・デ・アーナは恐妻家であり、シュトラウスは相当苦労したエピソードが残されていますが、妻に対する愚痴や苛立ちがインスピレーションにも繋がり、妻をモチーフにした歌劇『インテルメッツォ』『家庭交響曲』『影のない女』といった人気作品が生まれました。

リヒャルト・シュトラウスは34歳の時に交響詩『英雄の生涯』を作曲した後、オペラ作曲家としての活動をメインとしていきました。ただ、いくらシュトラウスとはいえ、勝手の違うオペラでは順風満帆にキャリアを積めませんでした。

最初の『グントラム』『火の危機』といった作品は評価を受けず、転向後約6年ほどは冬の時代を迎えます。

オペラ音楽

しかしながら、優れた才能を持つリヒャルト・シュトラウスがそのまま腐るはずもなく、41歳の時に作り上げたオスカー・ワイルドの戯曲のドイツ語訳作品『サロメ』が大ヒット。一気に一流オペラ作曲家の仲間入りを果たします。

サロメ=聖書を題材にした官能的な内容なオペラ。音楽性の前衛的であり、不協和音がふんだんに取り入れられていることが特徴です。

サロメのヒット後はさらに前衛的な作風を加速させ、『ばらの騎士』といった作品を作曲。無調に近い音楽構成でありながらも喜劇の比率が高いという圧倒的な個性を発揮しました。

最後のオペラとなった『カプリッチョ』を書き終えるまでシュトラウスは精力的にオペラを作曲し、引退するころには「器楽曲」と「オペラ」の両方で代表作を残した超一流作曲家として名を残しました。

輝かしい功績を残したリヒャルト・シュトラウスですが、晩年はナチス政治に関わったとして、非難を受けました。

内容としては、ナチスの要請に応じた音楽活動を行い、帝国音楽院総裁の地位についたことが挙げられます。

第二次世界大戦終結後にはナチスに協力した疑いから裁判にかけられる事態にまで陥りましたが、結局は無罪となりました。

裁判

※家族にユダヤの血筋が流れていたシュトラウス一家にとって、要請を断れば迫害を受ける可能性があったため、強力せざるを得なかったという意見が強いです。

無罪とはなりましたが、シュトラウスは裁判の被告となったことは事実。以降は表立った活動が大きく制限され、余生を静かに過ごすことになります。

ただ、大規模なオペラや交響詩は作れなくなったとはいえ、細々と歌曲や器楽曲の作曲は続け、84歳にして『4つの最後の歌』という有名歌曲を残しました。

リヒャルト・シュトラウスが最後を迎えたのは、その翌年(1949年9月8日)。ドイツのガルミッシュ=パルテンキルヒェンにてその生涯を終えました。

葬儀では彼の代表曲『ばらの騎士』第3幕の三重唱が演奏されたそうです。

ジャン・シベリウス(1865〜1957)

シベリウス クラシック作曲家

ジャン・シベリウスはフィンランド出身の国民楽派作曲家として活躍し、名声を博した人物です。

フィンランドの自然を感じさせる壮大な音楽が彼の特徴で、代表作には「交響曲第2番」「フィンランディア」「もみの木」といった作品があります。

マイナーな作曲家ではありますが、初心者でも聴きやすいためオススメです。

シベリウスは1865年に首都ヘルシンキの北にあるハーメンリンナにて誕生。2歳の時に借金を残してこの世を去った父の代わりに母方の祖母と家に引き取られました。

彼は姉と弟との3人姉弟で育ち、ピアノやチェロの演奏を楽しむ生活を送っていましたが、叔父にヴァイオリンを譲りうけてからはヴァイオリンに一番興味を示していたようです。

10歳になる頃には独学で自作曲が書けるようになっており、その才能の片理を見せると同時にプロの音楽家として活躍することを夢見るようになります。

フィンランド ヘルシンキ

シベリウスは20歳の時にヘルシンキ音楽院に入学。ヴァイオリンと作曲を学びますが、特にヴァイオリンに強くのめり込み、日々努力を重ねます。

1887年には弦楽四重奏団の第2ヴァイオリン奏者に抜擢され、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のオーディションを受けるなど、当時のシベリウスは作曲よりもヴァイオリンの実力が評価されていました。

しかし、上には上がいることを思い知ったシベリウスは次第に作曲活動に趣をおくようになり、ヴァイオリンのプロ奏者になる夢は諦めます。

同学院を卒業後はベルリン及びウィーンに留学し、作曲家としての成長を果たします。

本場の音楽に触れ、豊かなインスピレーションを与えてもらった一方、祖国であるフィンランドに対する思いも強くなり、やがてシベリウスはフィンランドで作曲活動を続ける事を決め、帰国します。

帰国後は1892年に公演した『クレルヴォ交響曲』をキッカケに名声を博し、同年にヘルシンキ音楽院の作曲講師に就任。

翌年にはアイノ・ヤルネフェルトと結婚し、家庭を持ちます。

その後は精力的に祖国フィンランドに基づく作品を作り上げ、1899年に愛国歴史劇の音楽を担当したことにより国民的作曲家として誰もが知る存在となりました。

尚、この劇で演奏された音楽は交響詩『フィンランディア』として発表され、現代においても彼の代表曲として広く親しまれています。

その後もシベリウスは『交響曲第2番』『バイオリン協奏曲ニ短調』といった名曲を次々と作曲。1904年以降はヘルシンキ近郊のヤルウェンパーに別荘を立て、自然豊かな環境にて作曲活動に専念しました。

シベリウスは91歳まで生きた長寿の作曲家ですが、現存している作品の殆どが59歳になるまでの作品です。それ以降は重要な作品が発表されることはありませんでした。

作品を発表しなくなった理由としては「自己批判的性向」が強くなったことが原因といわれています。

何を作っても「しょぼい」と感じるようになってしまったわけですね。

シベリウス 楽譜

シベリウスは最後を遂げたのは91歳(1957年)のこと。脳出血を発症し、この世を去りました。葬儀はヘルシンキの大聖堂で行われ、棺は自宅の庭(アイノラの庭)に葬られました。

なお、アイノラの庭はシベリウスファンにとっての聖地として今もフィンランドに存在しています。

最愛の妻である「アイノのいる場所」というの意味を持つ「アイノラ」は毎年5~9月の間に敷地内がミュージアムとして一般公開されています。もしフィンランドに行く機会があれば、訪れてみるのもよいでしょう。

エリック・サティ(1866〜1925)

サティ クラシック作曲家

サティは現代音楽家のパイオニア。調性音楽の在り方に疑問を感じていたサティは和声進行の伝統や従来の対位法の禁則を無視した音楽を作り、その型破りな音楽性から「音楽界の異端児」と呼ばれた人物です。

小節線・縦線・終止線すら廃止した音楽スタイルはまさに前衛音楽の走りとなりました。

とはいえドビュッシーと同じくキャリア前半においては誰もが聴きやすい美しい音楽を作曲しており、代表作である「ジムノペディ」「ジュ・トゥ・ヴ」はクラシック音楽の中でもトップクラスの人気を誇ります。

サティはフランス ノルマンディー地方の港町オンフルールに生まれ、幼少期は家族の死と度重なる移住による怒涛の日々を送ります。

・4歳の時:父の転職によってパリに移住
・6歳の時:母ジェインが死亡し、オンフルールに住む父が他の祖父母に預けられる。

・10歳の時:祖母ユラーリがオンフルールの浜辺で溺死体で発見される。

もしかしたら、この幼少期の体験がサティの突き抜けた音楽性へといざなったのかもしれません。

13歳からはパリ音楽院に進学し、約8年ほど音楽を学びますが、退屈すぎて辞め、その後はシャンソン酒場のピアノ弾きとして暮らします。

その後38歳にしてパリ・スコラ・カントルム(音楽学校)に入学し、自らの音楽性を高めながら、創作活動を続けました。

エリック・サティ

サティの音楽の凄いところ。
それは色々なモノがないところです。

まず、サティの音楽には調性がありません。

調性から解き放たれた彼の楽譜からは一番最初に「調号」が消えました。

そして次に消えたのが「拍子」。調性のみならず拍子すらも消えたサティの音楽は従来の音楽とは全く異なるモノとして扱われます。

840回にも及び永遠に同じフレーズを繰り返すピアノ曲『ヴェクサシオン(嫌がらせ)』はミニマルミュージックの先駆けとなり、家具のように目立たない音楽として作られた『家具の音楽』では現在でいうイージーリスニングのルーツとなりました。

『犬のためのぶよぶよとした前奏曲』『梨の形をした3つの小品』『胎児の干物』『でぶっちょ木製人形へのスケッチとからかい』など、曲のタイトルが非常に個性的であることも特徴的です。

その後サティは現代音楽のパイオニアとして活動を続け、59歳の時に肝硬変のためこの世を去りました。

モーリス・ラヴェル(1873〜1937)

ラヴェル クラシック作曲家

ラヴェルはドビュッシーと同じ印象派の作曲家として知られる人物ですが、古典派作曲家の影響を強く受けており、「伝統と革新」を融合させた独自の世界観をもちます。

古典派を意識した理論的な音の配置と印象派ならではの浮遊感のある和音構成を大胆かつ繊細に使いこなし、自作曲のみならず、他者の作品のオーケストレーションにも携わりました。

代表作は「亡き王女のためのパヴァーヌ」「ボレロ」「水の戯れ」など。「ムソルグスキー作曲:展覧会の絵」の管弦楽アレンジは本家を上回る人気を博しています。

日本においても非常に人気の高い作曲家であり、ジブリの作曲に携わった久石譲さんもラヴェルを研究し、自身の曲作りに活用したといいます。

死後80年が経過しようとしている現代においてもラヴェルの影響力は絶大であり、残したスコアの数々は作曲家たちの参考書として幅広く活用されています。
モーツァルト達が生きた古典派音楽とは異なり、ラヴェルの曲はジャズやスぺイン音楽といった現代的な要素を多く含んでいるので、より参考にしやすいのでしょう。

ラヴェルはフランス南西部の街シブールにて生まれ、音楽好きの発明家であった父の影響を受け幼少期からピアノと作曲の勉強を始めます。

その後パリ音楽院に進学したラヴェルはフォーレ、ぺサールといった名立たる作曲家の元で14年にもわたり高度な音楽理論を身に着けました。

23歳(1898年)となったラヴェルはフランスの若手作曲家の登竜門「国民音楽協会」のコンクールに参加。年齢制限に引っ掛かる1905年までに計5回このコンクールに参加し、大賞である「ローマ賞」を狙います。

しかし、いずれも入賞することなく落選してしまいます。

ただ、当時のラヴェルは既に『亡き王女のためのパヴァーヌ』『水の戯れ』といった名曲を残しており、エントリーしている他の作曲家よりも劣っているわけではありませんでした。

-ラヴェル事件-

最後の挑戦となった1905年。ラヴェルは渾身の作品を提出しますが、本戦に進むことなく、予選落ちします。
ただ、この年の本選通過者6名全員が審査員シャルル・ルヌヴー(パリ音楽院教授)の門下生であり、他の門下生の作品がいかに優れていようとも落選していました。
いわゆる公平性に著しく欠ける不正です。

結果的に運営方法に疑問を抱いたフランス内の作曲家や教授が抗議が起こり、パリ音楽院のカリキュラム自体が改革されるという事態にまで発展します。

コンクールへの挑戦が不本意な形で終わってしまったラヴェルですが、バレエ及び管弦楽曲『ダフニスとクロエ』や管弦楽曲『スペイン狂詩曲』が人気を獲得し名声を博します。
コンクールで結果は残せませんでしたが、そもそもラヴェルの高い音楽性はもう既にフランス中から評価されていたわけです。

1909年にはひと悶着あった国民音楽協会と決別し、新時代の音楽を築くための独立音楽協会を設立。師であったフォーレや同門であったシュミット、ケックランもこの協会に参加し、以後精力的な活動を続けました。

この年代の音楽史において避けて通れないのが戦争の話題。
1914年に第一次世界大戦が勃発したことにより、ラヴェルは兵士として徴兵されることになってしまいます。

ラヴェルはトラック輸送兵として軍役に就きましたが、虚弱体質であったラヴェルにとっては心身共に大きな負担となったようです。

さらに悪いことは重なるもので、徴兵中には最愛の母が死去。ラヴェルは失意のどん底に落ちます。

以上の理由からこの時期のラヴェルはすこぶる絶不調となり、約5年間ほど思うような創作活動を行えませんでした。

そして、まだまだラヴェルの不幸は止まりません。

1928年に行ったアメリカ演奏旅行での大成功により一時は復活の兆しを見せますが、同時期に言語障害・記憶障害を発症。1932年にはパリで交通事故に合い、字すらまともに書けない程にまで体調を崩します。

結局アメリカ演奏旅行の後にラヴェルが世に残せたのは『ボレロ』を含む4曲だけであり、1933年にパリで行ったコンサートを最後に一線を退きました。

ラヴェルは間違いなく誰もが羨む能力の持ち主でしたが、「時代」と「運」に成功を阻まれ、作曲家としての活動は約40年で終わります。
作曲家として活動が困難になったラヴェルの晩年は病気との戦いとなり、闘病生活の末62歳でこの世を去ります。
また、ラヴェルは多くの持病を抱えたこともあり独身で生涯を終えました。

アルノルト・シェーンベルク(1874〜1951)

アルノルト・シェーンベルク

シェーンベルクはオーストリア ウィーン生まれの作曲家です。8歳の時からヴァイオリンを習い始め、その後チェロを独学で学び、音楽の基礎を形成しました。

代表曲にピアノ曲が多い為、弦楽器が弾けるイメージは余り持たれてはいませんが、実は弦楽器に精通する作曲家でもあります。

十二音技法を確立させた作曲家のひとりであり、近代音楽史において重要な作曲家として扱われます。

シェーンベルクは最初から無調を目指していたわけではなく、駆け出しのころはブラームスを敬愛しており、交響曲の作曲家を目指していたとされています。

しかし、15歳の時に父がこの世を去るという悲劇に見舞われ、音楽院に進学することなく、私立銀行に就職。

夜間に音楽の勉強を続け、実力を磨きました。

混沌な音楽をひたすら作り上げたイメージが先行しがちですが、普通の曲も書けます。

青年期に作曲された主な曲

『ペレアスとメリザンド』

『浄められた夜』

『室内交響曲第1番』

上記はシェーンベルクが若かりし頃に作曲された曲です。この時点ではまだロマン派的なニュアンスが多く残っています。

その後シェーンベルクはツェムリンスキーの弟子となり、作曲を修行を本格的に開始。

師の影響や当時絶大な人気を誇ったワーグナーの影響を受け、平凡だったシェーンベルクの作品は徐々に調性の枠を超え、革新的な音楽を変貌を遂げます。

そして数年が経過し、シェーンベルクの調性逸脱はさらに加速します。

1909年に作曲された『3つのピアノ曲』や『5つの管弦楽のための小品』では殆ど調性感が消え、1911年に作曲された『6つの小さなピアノ曲』においてはほぼ無調に到達。

その後に書かれた代表作 歌曲集『月に憑かれたピエロ』にて自身のスタイルを完全に確立しました。

『月に憑かれたピエロ』では音楽を伴奏とする詩の朗読という斬新なスタイルで作曲され、伴奏は完全な無調となっています。

シェーンベルクの音楽は最初から受け入れられたわけではありません。

当時のウィーンには無調音楽に観衆は耐性がなく、常軌を逸した作品という評価を受けました。

しかし、現代音楽の推進者としても知られる指揮者ヘルマン・シェルヘンらはシェーンベルクの音楽を厚く支持。

彼らが各地で公演を行うことにより、シェーンベルクの音楽は次第に市民権を得ます。

ウィーン シェーンベルク

名声を博すようになったシェーンベルクは「アルバン・ベルク」や「アントン・ヴェーベルン」を弟子に迎え、新ウィーン楽派として活動。

やがて12平均律にあるオクターヴ内の12の音を均等に使用する十二音技法を確立します。

十二音技法によって作られた初期の曲としては『ピアノ組曲 op.25』という曲が有名です。

『ピアノ組曲 op.25』は12の音が全て現れるまで同じ音を使ってはいけないという縛りルールによって書かれています。

音楽というより数学の域に入ってきており、これまでの音楽とは全く異なる新しい世界が開かれました。

その後シェーンベルクは第二次世界大戦の勃発をキッカケに1934年にナチス・ドイツから逃れるためにアメリカに移住。

アメリカでは作曲活動を行う傍ら、後続の育成にも力をいれ、「ジョン・ケージ」「ルー・ハリソン」といった後に現代音楽の大御所となる作曲家を輩出します。

シェーンベルクがいなければ、アメリカの現代音楽はここまで進化しなかったといわれており、次の世代への橋渡しを果たしたこともシェーンベルクの大きな功績です。

クラシックの歴史を進め、そしてこれまでのクラシックの歴史を終焉を呼んだ人物。

それこそがシェーンベルクというわけです。

シェーンベルク 墓

その後もシェーンベルクは他界する直前までアメリカで精力的に活動をつづけ、76歳の時に喘息発作によってこの世を去りました。

死後はウィーン中央墓地の区に葬られ、革新的な音楽を作り続けた生涯を象徴する「斜めの立方体」で作られたユニークな墓石が建造されたそうです。

セルゲイ・ラフマニノフ(1873〜1943)

クラシック音楽史を代表とするピアニストといえばショパンやリストが有名ですが、ラフマニノフの存在も忘れてはいけません。

ラフマニノフは前衛的な音楽が主流となった20世紀においても美しき作風を貫き通し、「ピアノ協奏曲第2番」や「」といった名作を残した名プレーヤー兼作曲家です。

身長約2メートルの恵まれた体と12度の音程を左手で押さえることができた神の手によってどんな難曲も軽々と弾きこなしたといわれています。

プレーヤーとしての特徴は、軽やかで煌びやかなリストに対して、重厚な和音を奏でる才能に長けたプレーヤーであったこと。

ラフマニノフが書き上げた名曲には重々しい和音が至る所に現れます。

ラフマニノフ ペテルブルク音楽院

ラフマニノフは1873年4月1日にロシア ノヴゴロド州セミョノヴォに生まれ、4歳にして早くも音楽の才能を発揮します。

その後ピアノ教師としてアンナ・オルナーツカヤの勧めもあり、ペテルブルク音楽院の幼年クラスに入学。音楽家としての第一歩を歩み始めました。

しかし、ラフマニノフの一家は貧しく、9歳のころに破産。

さらには両親の離婚、姉との死別といった不幸が続き、ラフマニノフは過酷な幼少期を過ごすことになります。

その影響もあってからペテルブルク音楽院での勉強は身に入らず、従兄に当たるピアニストのアレクサンドル・ジロティの助言により、モスクワ音楽院に転入。

ピアニスト兼音楽教師であるニコライ・ズヴェーレフの家に寄宿することが決まり、以後ラフマニノフはピアノ漬けの毎日を送りました。

ラフマニノフ 指

ニコライ・ズヴェーレフの指導により、才能を着々と伸ばしたラフマニノフはピアニストとして頭角を現し、18歳でモスクワ音楽院ピアノ科を大金メダルを得て卒業。

また、在学中には対位法や和声も学び、作曲分野でもロシア屈指の作曲家チャイコフスキーに才能を認められるほどに成長しました。

翌年には同院の作曲科も卒業し、作曲科の卒業制作においても金メダルを受賞します。

音楽院生としては、まさに「文句のつけようがない成績」を残しました。

クラシック音楽 コンサート

モスクワ音楽院を最高の成績にて卒業したラフマニノフは1895年に交響曲第1番を完成させ、2年後の1897年に初演。

ただ、実はこの交響曲第1番の公演は大失敗に終わり、ラフマニノフは大きく叩かれます。

初演から凄まじいバッシングを浴びたラフマニノフは強く落ち込み、完全に自信喪失。

以後、作曲が出来なくなり、ピアニストとしての活動に専念することとなります。

作曲家ラフマニノフの休眠はしばらく続きましたが、親交のあった劇作家アントン・チェーホフの励ましや、精神科医のニコライ・ダーリの診療によって徐々に自信を回復させ、1900年に超有名曲「ピアノ協奏曲第2番」を作曲。

初公演では自らピアノを演奏し、見事に大成功をおさめます。

この作品によって作曲家としての名声を得た後、ラフマニノフは従姉のナターリヤ・サーチナと結婚。

公私ともに順風満帆な時期を迎えます。

この時期の作られた主な曲

「12の歌曲集」
オペラ『けちな騎士』
オペラ『フランチェスカ・ダ・リミニ』
交響曲第2番

「ピアノ協奏曲第2番」「交響曲第2番」により、国際的な評価を高めたラフマニノフは1909年にニューヨークにてピアノ協奏曲第3番を公演。ここでも名声を得ることに成功します。

1913年にはローマに滞在し、敬愛チャイコフスキーがかつて滞在した家を借り、合唱交響曲『鐘』を作曲。

その後はスカンディナヴィア諸国・デンマーク・アメリカへと渡り歩き、コンサート・ピアニストとして多忙な毎日を過ごします。

ただ、ここで一つ気になることがあります。

それは国際的に活躍を収める一方で、祖国ロシアでの活動がまったく無いことです。

ラフマニノフがロシアで活動していなかった理由はロシアにおいて十月革命が起こったことにあります。

ラフマニノフの実家は没落したとはいえ、貴族の家系でした。そのため、十月革命によって帝政が崩壊したロシアに住み続けることが困難になり、革命後は国外で活動せざるを得なくなったというわけです。

また、祖国を失ったことに拠っての作曲に対するモチベーションが湧かなくなったことにより、作曲家ではなくピアニストとしての活動が中心になりました。

1926年にピアノ協奏曲第4番を作曲するまでは目立った作曲活動を行ってはおらず、2度目の休眠を迎えたといっても良いでしょう。

作曲 休眠

とはいえ、ヴァイオリニスト「フリッツ・クライスラー」と共演による録音を行ったり、有名ピアノメーカー「スタインウェイ」から楽器の提供を受けるなど、実りのある生活を送ってはいました。

世界中の音楽関係者と密接な関係を持てたのはラフマニノフにとっては幸せなことだったのかもしれません。

1931年にラフマニノフはスイスのルツェルン湖畔に別荘「セナール」を建設。以後10年ほどこの地で過ごし、パガニーニの主題による狂詩曲や交響曲第3番といった晩年の名曲を残します。

1942年には第二次世界大戦の影響から、家族と一緒にカリフォルニア州のビバリーヒルズに移住。

体調不良に悩まされながらも演奏活動をつづけ、最後の作品となる「交響的舞曲」をロングアイランドにて完成させました。

しかし、蓄積疲労により、1942年末には癌が発覚。その数か月後の1943年3月28日にその生涯を終えました。

「フリッツ・クライスラー」という人物をご存知でしょうか?

クライスラーは19世紀後半から20世紀に活躍したオーストリア出身のヴァイオリニストです。

クラシック音楽史におけるヴァイオリンの名手といえば「パガニーニ」が真っ先に浮かびますが、クライスラーの存在も忘れてはいけません。

今回はクライスラーの生涯を簡潔に解説すると同時に、作曲家でもあった彼の代表的な作品を紹介します。

四月は君の嘘でクライスラーを知った人も多いのでは?

フリッツ・クライスラー(1875〜1962)

クライスラーは医師の息子として1875年にウィーンに生まれた世界的ヴァイオリニスト、作曲家です。アマチュア弦楽器奏者であった父の勧めにより3歳からヴァイオリンを始め、7歳でウィーン高等音楽院に入学。同学院にて演奏・作曲を学び、10歳にして首席で卒業します。

また、その後に入学したパリ高等音楽院でも優れた成績を収め、12歳でこちらも首席で卒業。ヴァイオリンの神に選ばれた「神童」として、圧倒的な才能を見せつけました。

ヴァイオリン クライスラー

クライスラーが華々しいデビューを飾ったのは1888年のこと。僅か13歳という年齢でアメリカ ボストンにて初の公演を成功させ、大きな名声を博します。

ただ、その後はヴァイオリニストとしての活動は抑え、医学を勉強高等学校に進学。20歳のころにはオーストリア帝国陸軍に入隊するなど、クライスラーの青年期はヴァイオリンとは距離を置いた生活を送ります。

早い時期にもてはやされると、中身の薄い人間になってしまうとクライスラーの父は危惧していたようで、若いうちは一般教養も幅広く身に着けて欲しいという教育方針だったようです。

親衛隊将校まで上り詰めた後、クライスラーは軍を退役し、本格的に演奏家として公の場に復帰します。

多少のブランクはあっても天才的な技術は相変わらず健在で、ヨーロッパ各地で行われた公演はどれも成功続き。

24歳の時に行ったベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と共演をキッカケに、演奏家クライスラーの名を世に知らしめます。

1902年以降は入ってからはロンドンやニューヨークを拠点に演奏活動を展開。ウィーンのみならず、世界中に名声を轟かせました。

私生活では27歳の時にアメリカ人のハリエット・リースと結婚し、公私ともに絶頂期を迎えます。

リースは非常にシッカリとした人物であり、クライスラーのマネージャーとして活躍したといわれています。ギャラ交渉や雑務を全てこなし、クライスラーを音楽だけに集中させたそうです。

順風満帆に演奏活動を行っていたクライスラーですが、第一次世界大戦の勃発後は活動が停滞します。

まず、クライスラー自身が軍人として招集されてしまったため、音楽活動どころではなく、生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされました。結果的に大戦では「重症」を負ったことをキッカケに除隊となり、なんとか生還を果たします。

ただ、活動拠点であったアメリカと祖国オーストリアが敵国になってしまったため、怪我が完治した後は思うような演奏活動が出来なかったようです。

その後ラフマニノフと共演するなど、演奏活動は軌道に乗りはじめますが、再び大戦が勃発したことにより、またもや停滞期を迎えます。しかも今度はナチスによってオーストリアがドイツに併合され、第一次世界大戦よりも遥かに悪い状況に。

「次に軍に招集されたら今度こそ死ぬ可能性が高い。」

そう感じたクライスラーは祖国から脱し、ニューヨークへの移住を決意。アメリカ国籍を取得し、ヨーロッパから去りました。

ニューヨーク

しかし運命とは皮肉なモノで、移住の2年前に交通事故に合い、以後クライスラーは視力や記憶障害といった負傷の後遺症に苦しむことになります。アメリカ移住後も演奏活動は継続して行いましたが、1950年に体調不良から引退。

1962年に心臓疾患でこの世を去りました。

近現代音楽の特徴と作曲家

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この記事を書いた人

可愛いモノや綺麗なモノが好きなアマチュアヴァイオリン製作家。優れたヴァイオリンを一本でも多く作ることを目標に活動中です。
製作工程や音楽に関する記事を更新しています。

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