クラシック音楽はバロック時代から古典派時代を経て、ロマン派時代へ歴史が移り変わっていきますが、その時代の終盤(19世紀中ごろから20世紀)にかけて国民学派と呼ばれる作曲家たちが台頭します。
ロマン派の技法を駆使しながらも新しい音楽のカタチを目指した国民学派。
彼らの音楽は一体どのようなものだったのでしょうか?
今回は国民学派について解説していきます。
国民学派について
国民学派は19世紀中ごろから20世紀にかけて、民謡や民族音楽に基づく独自の国民音楽を作り上げた作曲家たちの総称です。
国民学派の作曲家たちは民族固有の音楽を重視しながら、自国の歴史や自然を題材とした作品を作り上げ、音楽的に優れることはもちろんのこと、愛国心を抱かせる曲を書き続けました。
なお、この時代の大きな特徴はクラシック音楽の中心であったイタリア・ドイツ・オーストリアではなく、これまで日の目を浴びてこなかった国々を中心に発展を遂げたことにあります。
ロシアからは「ロシア5人組」、チェコからはドヴォルザーク・スメタナ、フランスからはサン=サーンス、フィンランドからはシベリウスといった現代に名を残す大作曲家が生まれ、やがて国民学派の音楽は頂点を迎えることになります。
国民学派が生まれた背景
国民学派が生まれた背景は、大きく分けて以下の2つです。
・ロマン派音楽が行き詰まりを見せていたこと。
・欧州の時代背景によるもの。
バロック時代からロマン派にかけて膨大な数の楽曲が作られ、ネタ切れが否めなくなったことも国民学派が生まれた要因ですが、国民学派の時代においては何よりも時代背景が重要です。
世界史の話となるため詳しくは割愛しますが、1848年に起こったフランス二月革命により、この時期のヨーロッパでは「国民が国の担い手」になる気運が高まっていました。
それに伴い小国の独立運動が活発化し、絵画や音楽といった芸術分野においても自分たちの国の歴や文化を大切にしようという動きが大きくなります。
当時のクラシック音楽の主流はドイツ・ロマン派音楽でしたが、国民主義(ナショナリズム)も盛り上がりと共に、「自国の音楽を愛さないでどうする!」と考える作曲家が増え始め、これまで日の目を浴びてこなかった国々を中心に自国の伝統を重んじる作曲家の台頭が目立つようになります。
国民学派とロマ音楽
ちなみに国民学派の先駆けとなったのは「ロマの音楽」といわれています。
ロマ音楽は、アジアやヨーロッパなどで移動型の生活を送っていたロマ民族発祥の音楽「ジプシー音楽」のことで、激しいリズムと憂いのあるメロディーから放たれるエキゾチックな音楽です。
ロマン派音楽にはない独自の音楽性をもつことから、
フランツリスト「ハンガリー狂詩曲」
ドヴォルザーク「スラブ舞曲集」
などに用いられ、行き詰まりを見せつつあったロマン派音楽に新しい風を吹き込みます。
フランツリスト ハンガリー狂詩曲
ドヴォルザーク「スラブ舞曲集」
このロマ音楽の流行が、作曲家のインスピレーションを刺激し、自国の根付く伝統を用いた音楽の作曲を模索しはじめるキッカケとなったともいわれています。
ロシアの国民学派
国民学派の動きが最も盛んだったはロシアです。
ロシアはドイツの影響が強く、ドイツ音楽が主流の国でした。
この時代にはチャイコフスキーという大作曲家がいましたが、彼もドイツ音楽の影響を大きく受けており、自国の音楽の発展という観点では、まだまだ発展途上の国だったといえます。
しかし、その状況を良く思わなかった「ミリイ・バラキレフ」「ツェーザリ・キュイ」「モデスト・ムソルグスキー」「アレクサンドル・ボロディン」「ニコライ・リムスキー=コルサコフ」の5人は音楽における脱ドイツの動きを掲げ、ロシア民族特有の音楽の発展させるための作曲家集団を作ります。
それこそがロシア5人組の発足です。
5人組という名がついているためロシア五人組はグループで活動していたと思われがちですが、志が同じというだけで、実際は各々独自の音楽活動を行っています。また、5人だけではなく多くの作曲家が在籍していたサークルであったことも重要なポイントです。
その後のロシアでは中心人物の5人を中心に自国の音楽を意識した曲の展開が積極的に行われるようになりました。
現代においてクラシック初心者でも知っている曲は、ムソルグスキーのピアノ組曲「展覧会の絵」くらいですが、ロシア5人組によるロシア音楽の発展は、のちの世に大きな影響をもたらすことになります。
チェコの国民学派
チェコの国民学派としてはスメタナ・ドヴォルザークが有名です。
スメタナは「モウダウ」、ドヴォルザークに至っては誰もが知る「新世界より」を世に残しており、音楽だけを切り取ればこの時代において最も後世に名を残した国だといえます。
ただ、スメタナは「我が祖国より モウダウ」という国民学派を代表とする名曲を残してはいますが、音楽性自体はドイツ・ロマン派の音楽に基づいており、一貫して民族音楽を志していたわけではありません。
逆にスメタナの弟子でもあったドヴォルザークはブラームスとの出会いをきっかけに民族音楽を積極的に取り入れた楽曲を多く残すようになり、スラブ舞曲集第1集といったエキゾチックな音楽を数多く残しました。
国民学派の作曲家は民族音楽に卒倒した人物だと思われがちですが、実は作曲家によって考え方はそれぞれだったりもします。
スメタナについて
多くの挫折と苦労を重ね晩年にやっとチェコ屈指の音楽家として認められたスメタナ。
両耳の難聴に苦しむ中、チェコ国民音楽の記念碑的な作品として作曲した連作交響詩「我が祖国」によって大輪の花を咲かせました。
現代においてはあまり演奏されることはありませんが、実はオペラで成功した人物でもあります。
ドヴォルザークについて
国民楽派の作曲家としてもっとも大きな功績を残したドヴォルザーク。天才的なメロディーセンスをブラームスに才能を見出され、チェコの国民楽派の作曲家として一気にブレイクしました。
晩年には「ニューヨーク・ナショナル音楽院」の教授として音楽新興国アメリカに欧州の風を吹き込み、世界の音楽シーンにも多大なる影響を与えたことで知られます。
ウィーン楽友協会の名誉会員に推挙、芸術科学名誉勲章の授与、オーストリア貴族院による終身議員任命。
ドヴォルザークは国民楽派の大御所として、輝かしい実績を残し続けたロマン派屈指の音楽家です。
フランスの国民学派
独仏戦争に敗れた当時のフランスにおいて「音楽=ドイツ音楽」という価値観は根強いものでした。
しかし、フランス音楽を広めるために「国民音楽協会」が設立されたことをキッカケに、フランス独自の音楽は急速に発達を遂げます。
フランスといえば印象派のイメージが強いですが、国民学派の時代においてはサン=サーンスが作曲したピアノ協奏曲第5番「エジプト風」、スペイン風の要素を盛り込んだ「序奏とロンド・カプリチオーソ」などが時代を象徴とする名曲として残されています。
サン=サーンスは次世代のラヴェル・ドビュッシー・サティーの影響から印象派の一員というイメージがもたれやすい人物ですが、音楽史においては国民学派の作曲家であるという認識の方が自然です。
サン=サーンスについて
ピアニスト・オルガニスト・指揮者としてロマン派音楽家として活躍したサン=サーンス。
後期ロマン派の作曲家でありながらも古典的な作曲技法を好み、フランス唯一の古典派とも呼ばれます。
現代においてはフランス音楽の基礎を築いた重要人物として再評価されています。
北欧の国民学派
クラシック音楽史の中では存在感の薄い北欧ですが、国民学派の時代においてはフィンランドからシベリウスが、ノルウェーからはグリークが頭角を現し、自然を表現した壮大な音楽を残しました。
特にシベリウスが作曲した『フィンランディア』は国民学派を象徴とする楽曲であり、「愛国心を沸き起こす曲」として、フィンランド大公国を収めていた帝政ロシアから演奏禁止処分が下されるほど影響力があったといわれています。
シベリウスについて
「フィンランドの大自然」を意識したスケール感の大きい楽曲を数多く残したシベリウス。精力的に祖国フィンランドに基づく作品を作り上げ、1899年に愛国歴史劇の音楽を担当したことにより国民的作曲家として誰もが知る存在となりました。
国民楽派としてのイメージが強すぎるせいで政治的な印象を持たれがちですが、代表曲フィンランディア以外にも彼ならではの美しい楽曲が無数に存在します。
グリークについて
19世紀中盤から20世紀の頭にかけて国民楽派の作曲家として活躍したグリーク。メロディーセンスに優れ、誰もが親しみやすい音楽性を持つことが特徴です。
彼の代名詞である劇音楽ペール・ギュントより「朝」は小中学校の朝の放送でよく使われており、チャーリーとチョコレート工場といった数々のドラマや映画に使われた「山の魔王の宮殿にて」も強烈な知名度を誇ります。
性格的にも穏やかな人物であったとされており、クラシック音楽家の中でも非常に印象の良い作曲家だといえます。
最後に
国民学派の時代は国民主義(ナショナリズム)に基づく楽曲が多く残された時代です。
独立運動や革命が頻繁に起こった時代背景から「自国ならでの音楽」が模索され始め、これまで主流であったドイツロマン派音楽からの脱却が始まりました。
フランスは印象派の時代へ。ウィーンは新ウィーン学派の時代へ。
国民学派はいわば「ロマン派から次の時代」への橋渡しとなった世代ですが、この時代の音楽だからこそ味わえる魅力が確かにそこに存在します。
ムソルグスキー・スメタナ・ドヴォルザーク・シベリウス・サン=サーンス。
国民学派の音楽を普段あまり聴かないという方も、この機会に再注目してみてはいかがでしょうか?