幻想交響曲を作り上げたベルリオーズの生涯

「ルイ・エクトル・ベルリオーズ」はフランス南部のラ・コート=サンタンドレに生まれ、管弦楽曲とオペラを中心に成功を収めた偉大なる作曲家として知られています。

ロマン派中期を生き、後の世でフランス10フラン紙幣に採用されるほどの名声を博したベルリオーズはどんな生涯を送ったのでしょうか?

今回は名曲「幻想交響曲」を作り上げ、クラシック音楽に革新をもたらせたベルリオーズについて掘り下げていきます。

クラシック作曲家 ベルリオーズ

作曲家としてはレイトスターターのベルリオーズ

大半のクラシック音楽家は幼少期の頃から英才教育を施されていますが、ベルリオーズが本格的に音楽の勉強を始めたのは14歳の頃です。ピアノやヴァイオリンといったメジャーな楽器ではなく、フルートとギターという珍しい楽器を父から買い与えられたことによりキャリアをスタートさせています。

また、クラシック作曲家はピアノの名手が多いのですが、ベルリオーズは非常に珍しいピアノが苦手な作曲家としても有名です。作曲に関しても素人同然でしたが、シャルル・シモン・カテルの『和声概論』を参考に独学にて才能を伸ばしたようです。

そんなベルリオーズですが、まだこの当時は専門的な音楽の勉強は開始しておらず、大学を選ぶ際も開業医であった父の後を継ぐために医科大学に入学します。

つまり18歳になるまでは音楽を趣味とする一般人に過ぎませんでした。

医学生から音楽院生に方向転換

医学の道を志したベルリオーズですが、医学の勉強を続けていくうちに自らの適正に悩まされるようになり、興味は次第に音楽に移行します。

その後、学業よりもオペラ座に通うことに趣を置くようにったベルリオーズは、20歳の時に父の反対を振り切りパリ音楽院に入学。音楽院の教授ジャン=フランソワ・ル・シュウールからオペラと作曲を学びました。

クラシック音楽において、20歳から本格的な教育を受けることは遅いスタートではありますが、ベルリオーズはそのハンデをもろともせずに勉強にのめり込みます。

ローマ賞の受賞により名声を得る(前期)

パリ音楽院において意欲的に創作活動に取り組み続けるベルリオーズは「ローマ賞」と呼ばれる作曲コンテストで第一等を受賞することを目標に『オルフェウスの死』『エルミニー』『クレオパトラの死』を作曲。

これらの曲で優勝を果たすことは叶いませんでしたが、少しつづ手応えを掴んでいきます。

そして、音楽院に入学してから7年が経過した1830年のこと。『サルダナパールの死』を作曲し、4度目の挑戦にして初めてローマ賞を受賞します。加えて同年12月5日には代表曲である『幻想交響曲』の公演にも成功します。

遅咲きにはなりましたが、ベルリオーズは27歳にして一流作曲家の仲間入りを果たしました。

『幻想交響曲』の誕生秘話

まだローマ賞第一等を受賞する前のこと。ベルリオーズは劇団女優ハリエット・スミッソンに恋をし、劇場に頻繁に顔を出し手紙を送っていました。悪い言い方をすればストーカー紛いの熱烈なアピールをしていたのです。

ただ、受賞前のベルリオーズは駆け出しの作曲家に過ぎず、全く相手にしてもらえませんでした。

そのことを根に持ったベルリオーズは彼女を憎むようになり、負のエネルギーから幻想交響曲を書き上げました。

婚約破棄により荒れ狂うベルリオーズ

作曲家として成功への道を歩み始めたベルリオーズですが、プライペートでは大きな挫折を味わいます。それは女性ピアニスト マリー・モークとの婚約破棄です。ローマ賞で第一等を受賞して世間の脚光を浴びたベルリオーズはマリー・モークと婚約を結んだのちローマに留学しました。(留学から戻ったら結婚する予定だった)

しかし、留学後になんとマリー・モークはカミーユ・プレイエルと恋仲になり、婚約破棄。失恋続きとなったベルリオーズは憎悪と失意にまみれ、一ヶ月ほどの療養を余儀なくされます。

演奏旅行時代のベルリオーズ(1832年〜1840年頃)

失意のローマ留学を終え、パリへと戻ったベルリオーズはハリエット・スミッソンと再会し恋仲になります。そして、1833年には4年前からの恋を成就させ結婚。

その後はパリ郊外のモンマルトルに拠点を移し、オペラ作品を中心に数々の名曲を生み出します。

パリ モンマルトル

この時期はベルリオーズの中期にあたり、『ベンヴェヌート・チェッリーニ』『劇的交響曲 ロメオとジュリエット』『交響曲 イタリアのハロルド』といった楽曲を完成させました。

ベルリオーズの名声はどんどん高めていったかのように思えますが、実はベンヴェヌート・チェッリーニが大不評の出来となってしまったことから、1840年になる頃には人気凋落の一途を辿ります。

今も昔も一回やらかしてしまうと致命的なダメージを追うのは一緒。公演での収入が一気に減ったベルリオーズは貧困に陥ることになりました。

演奏旅行を頻繁に行うようになる

パリでの人気が落ち込んだベルリオーズはその後ウィーン・ブタペスト・ドイツ・ロシアなどに趣き、海外での活躍を狙います。そしてベルリオーズは狙い通りに公演を次々と成功させ、各国から称賛される存在へと上り詰めました。

ただ、この時期においてもパリ公演では失敗と成功を繰り返していたため、「富」を得たとは決して言えない状況が続きます。

妻であるスミッソンと性格の不一致から別居状態になり、雑誌の執筆活動で忙しく作曲に当てる時間が少なくなるなど、成果を上げる一方で苦労が絶えない生活を送り続けました。

暗黒時代のベルリオーズ

1848年2月にパリで2月革命が勃発。不穏な空気がパリ全体を包み込む中、同年7月には父が死去、別居中の妻ハリエットも脳卒中で倒れるなど、ベルリオーズはこの年に多くの不幸に見舞われます。

その後パリの治安が悪化したことが原因となり、ベルリオーズは創作活動の停滞を余儀なくされます。

苦しい状況を打破しようとベルリオーズは1850年にパリ・フィルハーモック協会を設立し、指揮者としてパリの音楽会を盛り上げようとしました。しかし、好評を得ることができず、経営難によって僅か1年あまりで解散を余儀なくされます。

そして1854年3月には妻スミットンが死去。この約8年間はベルリオーズにとって暗黒時代と呼べる時期となってしまいました。

※1854年には10月にマリー・レシオと再婚。息子ルイに宛てた手紙には「一人で生きていくことができない」という言葉が綴られていたらしいです。

後期のベルリオーズ

後期のベルリオーズは再び演奏旅行にて名声を博します。

主に評判がよかったドイツを中心に公演を続け、暗黒時代を払拭させる活躍をみせました。また、幾度も栄光と挫折を味わったフランス・パリにおいても声楽曲『キリストの幼時』を皮切りに再び名声を博し、名作曲家として確固たる地位を確立します。

※ベルリオーズは作曲家として高く評価されていましたが、指揮者としても高い評価を獲得ています。

1856年にはフランス学士院会員に選ばれ、ついに安定した生活を送れるようになります。4年後の1860年にはドイツのバーデン=バーデンにて2幕のオペラ『ベアトリスとベネディクト』を公演し、これも好評を博します。

その後も精力的に活動を行い、60歳で筆を置くまで名作を残し続けました。

孤独による最後を迎える

最後を迎えたのは65歳の時の事です。58歳の時に再婚相手のマリー・レシオ、63歳の時に息子のルイを亡くし、病気を患っていていたベルリオーズの心と体に大きなダメージを与えます。

孤独を嫌っていたベルリオーズにはもう生きていくだけで気力が残っていなかったのでしょう。1869年3月8日にその生涯を閉じました。

ベルリオーズが作り上げた標題音楽について

ベルリオーズは標題音楽の概念を確立させたことにより、クラシック作曲家の中でも特に重要な人物とされています。

標題音楽(ひょうだいおんがく、英語: program music, ドイツ語: Programmmusik, フランス語: musique à programme)とは、音楽外の想念や心象風景を聴き手に喚起させることを意図して、情景やイメージ、気分や雰囲気といったものを描写した器楽曲のことをいう。

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/標題音楽

ベルリオーズの代表曲である幻想交響曲を例にわかりやすく説明します。

幻想交響曲は《夢、情熱》《舞踏会》《野原の情景》《刑場への行進》《悪魔の祝日の夜の夢》の全5章で展開される曲ですが、それぞれの冒頭にその章の音楽的内容を説明する言葉が添えられています。

つまり、「標題を意識して音楽を聞いてね」ということです。

これはベートーヴェンやモーツァルトといった古典派の作曲が作り上げた「音楽外の世界を特に参照せずとも鑑賞できるように作られた音楽作品である絶対音楽と真逆の性質を持ちます。

 

ちなみに標題音楽は「標題を定めてからその標題に基づいて作曲するのが一般的」とされているため、現代における映画音楽、ゲーム音楽、劇音楽、ジャズ音楽も標題音楽といえます。

そう考えるとベルリオーズの曲が身近に感じてきませんか?

ベルリオーズの名曲

ベルリオーズの名曲といえば、やはり幻想交響曲でしょう。この曲を聴かずしてベルリオーズは語れません。また、ベルリオーズ自身が気に入っていたとされるレクイエムの評価も高いです。

幻想交響曲


幻想交響曲はベルリオーズが26歳の時に作曲した最初の標題音楽です。妻となるハリエット・スミッソンに一度フラれた時に書かれたこの曲は、ベルリオーズ自身を主人公とした「愛と憎しみ」の曲に仕上がっています。

現代においても頻繁にオーケストラで演奏される人気曲であり、クラシック初心者でも聴きやすい事も魅力です。

レクイエム


フランス政府からの依頼により作曲され、礼拝堂で演奏されたベルリオーズのもう一つの代表作レクイエム。200名以上のコーラス隊を加えた大規模編成で演奏される迫力の一曲です。

ティンパニーが8対も配置される事も話題を生みました。

まとめ

幻想交響曲によって標題音楽の概念を確立させたベルリオーズはクラシック音楽史の中では非常に重要な人物です。ストーリーがある作品のBGMであれば標題音楽であるともいえるため、サウンドトラック好きの方にとっては神のような存在だといっても過言はないでしょう。

彼が作り上げた曲自体はクラシック好きでもない限りはメジャーとはいえませんが、音楽の歴史を知る上でベルリオーズの存在は絶対に無視できないのです。

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