ロマン派時代の古典派作曲家 ブラームスの生涯

ヨハネス・ブラームスはロマン派時代に名を馳せたクラシック作曲家であり、ベートーヴェンの後継者として古典主義的な音楽を多岐にわたって残しました人物です。
今回はバッハ・ベートーヴェンと並びドイツ音楽の3B(Bach)(Beethoven)(Brahms)と称されるブラームスの生涯について掘り下げていきます。

クラシック作曲家 ブラームス

新古典派と呼ばれた保守的作曲家ブラームス

ブラームスはドイツ・ハンブルクにて生まれ、コントラバス奏者であった父やピアノ教師であったオットー・フリードリヒ・ヴィリバルト・コッセルから手ほどきを受け、幼少期からその才能を開花させていきました。

10歳の時には早くもピアノ奏者としてステージに立ち、本格的に音楽の勉強をするためエドゥアルト・マルクスゼンに師事しますが、実家が貧しかったため、レストランや居酒屋でのピアノ演奏によって日銭を稼いでいたといわれています。

ブラームス 幼少期

その後、一時はピアニストとしてプロを目指そうとした時期もありましたが、20歳になる前には自分の才能に見切りをつけ、作曲に専念。

ヴァイオリニスト「ヨーゼフ・ヨアヒム」作曲家「シューマン」「リスト」といった名だたる音楽家と交流を深め、自らの音楽性をより高めていきました。

特にシューマンとの相性は非常によく、公私に渡って親しい関係を続けたという記録が残っています。

シューマンが精神障害で死去した後も交流は続き、ブラームスはシューマンの妻であったクララやその子供たちを支えました。クララとは恋愛関係にまで発展したとも囁かれていますが、シューマンへの経緯から結婚に至ることはありませんでした。

1857年からはデトモルトの侯国宮廷にて音楽家として勤務。1862年からはウィーンに移住し本格的に作曲家として活躍します。

以後、ブラームスはウィーンにて精力的な作曲活動を行い、1897年4月3日に肝臓癌によってこの世を去るまで同地にて過ごしました。(没63歳)

ロマン派の作曲家は様々な国を跨いで活動した人物が多数いますが、ブラームスは生涯ウィーンにて古典主義を継承した楽曲を残し続けたことで知られています。

ブラームスが残した主な名曲

1868年『ドイツ・レクイエム』
1876年『交響曲第1番』
1877年『交響曲第2番』
1878年『ヴァイオリン協奏曲 ニ長調』
1883年『交響曲第3番』
1885年『交響曲第4番』
1891年『クラリネット三重奏曲』
1891年『7つの幻想曲』
1894年『2つのクラリネットソナタ』
1896年『4つの厳粛な歌』

ご覧のように、彼が残した有名曲は「交響曲」に集中しています。
というのも、ブラームスはハイドン・モーツァルト・ベートーヴェンといった古典派の作曲家を崇拝しており、ロマン派の作曲家の中で最も古典派に近い存在とされていたからです。

『交響曲第1番』においてはベートーヴェンの10番目の交響曲と言われるほどの名声を獲得。交響曲第4番においてはバッハの「カンタータ第150番の主題」を応用し、古き良きバロック音楽の雰囲気をロマン派時代において再現しました。

これらの事から分かるように、ブラームスはロマン派に生きながらも超保守派の作曲家です。

バッハ・ベートーヴェンが紡いできた構造的な音楽を忠実に継承しているブラームスが3大Bと呼ばれるようになったことはごく自然のことのように思えます。

完璧主義!ブラームスの性格

ブラームスは完璧主義であり、気にくわない曲は容赦なく破り捨てたといわれています。特にまだ未熟であった10代の時に作曲した曲は殆ど破棄されており、現存していません。

また、57歳の時には自身の衰えから作曲家としての引退を考えましたが、その際に「遺書」まで書き、手稿を整理していたというエピソードも強烈です。

とにかくストイックで、頑固。作る曲は超保守。
それがブラームスという人物でした。

尚、子供に対しては優しかったブラームスですが、大人に対しては無愛想で皮肉屋という一面を持っていたため、しばしば他の作曲家と対立することになります。
ただ、これは自分の気持ちを伝えることが苦手な不器用な性格が原因だっただけであり、性悪な性格だったわけではありません。

ブラームスと相性がよかった人物

『ピアニスト クララ・シューマン』
『作曲家 ヨハン・シュトラウス2世』
『作曲家 ドヴォルザーク』
『外科医 テオドール・ビルロート』
『評論家 ハンスリック』

ブラームスと相性が悪かった人物

『作曲家 フランツ・リスト』
『作曲家 リヒャルト・ワーグナー』
『作曲家 アントンブルックナー』

ブラームス派VSワーグナー派

ブラームスの時代においてブラームス派とワーグナー派の争いが生まれたということは覚えておきたいポイントです。

ただ、ブラームス派とワーグナー派とはいったものの、この両者が派閥を作って争っていたわけではなく、ブラームスは音楽評論家であるハンスリックとワーグナーの対立に巻き込まれる形で対立構造の渦中への誘われました。

絶対音楽と標題音楽

この時代の音楽には絶対音楽と標題音楽という2つの思想がありました。

絶対音楽=『音楽そのものを表現しようとするような音楽』
標題音楽=『情景やイメージ、気分や雰囲気といったものを描写する音楽』

古典主義の流れを継承するブラームスは紛れもない絶対音楽の作曲家です。他の芸術と絡めずに音楽のみで勝負する姿勢を評価する者は後を絶ちませんでした。

対してワーグナーは演劇を取り入れることで思想を提示する標題音楽の作曲家であり、新時代の音楽として強いカリスマ性を発揮していたことで知られています。

ここに加わってくるのが音楽評論家とハンスリックという人物です。ハンスリックは絶対音楽を崇拝する評論家であり、ことあるごとに標題音楽の革新児であるワーグナーを批判しました。

ワーグナーは別に絶対音楽を嫌っていたわけではなく、寧ろ評価していたのですが、一方的に攻撃されると反撃せざる負えないのが人の性であり、ハンスリックとの敵対関係となったわけです。

ここになぜブラームスが絡むことになったのかというと、ハンスリックは絶対音楽作曲家としてこれ以上ない存在であるブラームスを絶賛することでワーグナーの対抗馬を作り上げたいという目論見がありました。

ブラームス自体はワーグナーの音楽を批判しているわけではなかったのですが、結果的に絶対音楽の中心人物として祀られるようになったことで、標題音楽を好む作曲家と険悪な雰囲気になってしまいます。

その後評論による絶賛・批判が繰り返されるうち、派閥化はさらに加速していき、『絶対音楽VS標題音楽』『ブラームス派とワーグナー派』という派閥が生まれてしまいました。

積極的に他者の音楽を批判しに行く性格ではないブラームスにとって、派閥の筆頭となってしまったことは迷惑でしかなかったのではないでしょうか?

ブラームスの名曲

交響曲第1番 ハ短調


敬愛していたベートーヴェンの交響曲を研究し、何年もの歳月を費やして完成させたブラームスの有名曲。
第4楽章にベートーヴェン第9「歓喜の歌(よろこびのうた」を意識したメロディーが現れることから交響曲第10番とも呼ばれています。

交響曲第2番 ニ長調


交響曲第2番は大自然からインスピレーションを得た壮大な一曲。この曲もまたベートーヴェンの影響を受けた仕上がりになっており、第6番「田園」を彷彿させる雰囲気をもっています。
ちなみに第3番はブラームス版「英雄」ともよばれていて、如何にブラームスがベートーヴェンの後継者であったのかが伺えます。

ヴァイオリン協奏曲 二長調


ヴァイオリン協奏曲には3大協奏曲が存在しますが、ベートーヴェン、メンデルスゾーンと共に、ブラームスの二長調作品77もその一つとして有名です。
他の2曲よりもオーケストラの編成が巨大になっていることが特徴で、演奏時間は40分オーバーという大曲となっています。

クラリネット・ソナタ第1番 ヘ短調


晩年に衰えによって一時引退を考えていたブラームスが創作意欲を取り戻すキッカケとなった一曲。クラリネットの音色の美しさが見事に表現されています。第1番と第2番が存在しますが、1番は情熱的、第2番は安らかな曲調です。

最後に

ロマン派で最も古典派に近い作曲家と称されたブラームスは崇拝するベートーヴェンと同様に交響曲・管弦楽・室内楽曲といったジャンルにて大きな成果を挙げました。また、メジャーではありませんが歌曲においても多くの名曲を残しており、高い評価を獲得しています。

ドイツではブラームス、フランスではサン=サーンスがロマン派の古典主義の作曲家として活躍しましたが、時代はここから無調への時代へと変化を遂げていったため、厳格なドイツ音楽を志した大御所作曲家としてはブラームスが最後といっても過言ではありません。

しかし、彼の音楽は今尚時代から取り残されることなく、多くのクラシックファンに愛され続けています。

厳格で重い これぞクラシック!」という曲を聴きたくなった方はブラームスを是非聴いてみてください。

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