クラシック音楽の作曲家としては1位2位を争う知名度を誇るショパン。
CMで使われる頻度も多く、子犬のワルツやエチュード革命は誰もが一度は聴いたことがあると思います。
ショパンの特徴は何と言っても「ピアノ」に特化した作曲スタイルです。
生涯の殆どをピアノ曲の作曲に捧げた彼はまさに「ピアノの詩人」。生み出された名曲たちは今尚多くの人々に愛され続けています。
目次
ショパンが人気である理由
ショパンがこれほどまでに人気である理由。
それは「聴きやすい」からでしょう。
クラシック音楽は両親が聴いていたり、幼少期から楽器演奏を趣味としているといった方でなければ中々興味が持てない音楽ジャンルです。
特に交響曲・オペラ・声楽曲といったTHEクラシックな分野に関しては自発的に聴かなければ一切聴く機会がありません。
しかし、ピアノ曲に関しては少し異なります。
ピアノ曲は「曲が長くないため」誰でも聴きやすく、BGMとして最適です。そのため、クラシック全般には興味がないけど、ピアノ曲だけはたまに聴いているという方は決して珍しくありません。
ただ、ショパンがここまで人気になった理由は単にピアノ曲の作曲家であったということだけではありません。
ショパンが現代において人気を博している理由。それはメロディーがロマンティックだからです。
ショパンのメロディーは繊細かつロマンティックであるため、非常に印象に残りやすいです。現にCMやドラマに採用されることが他の作曲家よりも圧倒的に多く、クラシック音楽に興味がない人でも頭の中にメロディーが刷り込まれています。
聴き覚えがあるからこそ、誰でもスムーズにショパンの音楽を受け入れることができる。これは彼ならではの魅力だと思います。
ショパンの生い立ち
ショパンのフルネームは「フレデリック・ショパン」。
彼は1810年にポーランドのジェラゾヴァ・ヴォラに生まれ、ワルシャワで育ったポーランド屈指の作曲家・演奏家です。
音楽一家の長男として育ったショパンは幼いころからヴァイオリンやフルートといった様々な楽器に触れ、6歳になることろには「ピアノ」のレッスンを本格的に開始します。
すると、どうでしょう。
ショパンは神に選ばれし者というしかないほどの天才的な感性と技術を開花させ、8歳の頃にはワルシャワの貴族サロンにて自作曲を披露するとんでもない神童に育ちました。
現代に名が残っている作曲家は皆天才なのですが、ショパンのピアノの実力は名だたる作曲家の中でもトップクラスだといわれています。作曲に関する能力もピアノ曲に限ればモーツァルトやベートーヴェンといった名作曲家を凌駕していたようです。
虚弱体質と肺結核に苦しむ日々
ショパンは音楽活動を続けながら「ワルシャワ高等学校」「ワルシャワ音楽院」に進学。ワルシャワ音楽院においては首席で卒業し、ショパンを指導したエルスネルからは音楽の天才とまで称されました。
また、ショパンは穏やかでユーモアもある好青年だったようで、学生時代は友人と指導者に恵まれた順風満帆な日々を過ごしたとされています。
ただ、天才として確実に音楽家へのステージを上がる一方で、ショパンは身体が見事な虚弱体質でした。
子供の頃から呼吸器の感染症にかかりやすく、ワルシャワ音楽院を卒業する頃には完全に肺結核患者となってしまいます。
後の世でショパン19歳の肖像画を見た専門家からも「ショパンは結核にかかっていた。色が極端に白く、喉仏が目立ち頬が落ち窪んでいる。耳も結核に特徴的な消耗を呈している。」と評されており、ショパンが青年期の頃から肺結核に苦しめられていたことは間違いないようです。
しかし、この「薄幸の天才ピアニスト」という属性は彼の個性ともいえます。この個性がなければショパンが現在においてこれほどまでの評価を受ける作曲家にはなれなかった可能性もあります。
パリ時代のショパン
ワルシャワ音楽院を卒業したショパンはベルリン・ウィーンに活躍の場を広げ、着々と評価を高めていきました。
しかし、1830年にワルシャワで11月蜂起(ロシア帝国の支配に対する武力反乱)が起こったことをキッカケに、ウィーンにおいて反ポーランドの風潮が高まります。その影響を受け、ウィーンでの活動が困難となったショパンは活動拠点をパリに移すことを決断します。
※ポーランドの11月蜂起は結果的に失敗に終わり、ポーランドの治安は一気に悪化します。祖国を愛し、いずれはポーランドに戻ろうとしていたショパンですが、音楽活動を続けていくためにはポーランドに戻れることはできませんでした。
この時のロシアに対する感情や無念の思いから彼の代表曲「革命のエチュード」が生まれています。
パリに移住したショパンは芸術家や他の著名人との出会いを重ね、天才ピアニストとしての名声を博します。
ポーランドの作曲家として有名なショパンですが、彼が残した名曲の大半はパリで書かれたものであり、実質はパリで名声を博した作曲家であるともいえます。
しかし、同時代のロマン派作曲家とは異なり、ショパンがパリで公開演奏会を行うことは殆どありませんでした。その理由は以下の二つです。
・ショパンがサロンでの演奏及び自宅での仲間内の演奏を好んでいたこと
・持病によって各地を飛び回る演奏活動ができなかったこと
普通は積極的な公演活動を行わなければ作曲家は生活が難しいのですが、ショパンはヨーロッパ中から集まる多くの弟子にピアノを教えることで収入を得ていました。
名作曲家・名ピアニストであることのイメージが強いショパンですが、実はカリスマピアノ教師でもあったわけです。
ショパンの恋愛
常に体調が悪く体力がなかったショパンですが、見た目には気を使っており、ファッションセンスも抜群でした。
溢れる才能に、病弱属性、そしてオシャレともなると、そりゃモテたわけです。
そして、選り取り見取りで恋人を選べるショパンは26歳の時に10歳下のマリアという娘に恋をし求婚。マリアもそのプロポーズを受け入れ、はれて婚約者となります。
スキャンダルを恐れ、保守的な恋愛観を持っていたショパンでしたが、マリアに対する思いは熱いものがあったようです。
しかし、婚約翌年にショパンの体調面を危惧したマリアの両親の反対によって2人の婚約は破談。この婚約は世に知らされることはなく、ひっそりとショパンの恋は終わりを告げました。
ジョルジュサンドとの出会いと別れ
マリアと別れたショパンはその後ジョルジュサンドという女性と交際を始めます。
ジョルジュ・サンドは19世紀に活躍したフランスの女流作家で、数知れない男性遍歴で知られる人です。つまり超肉食系。
病弱で繊細なショパンとは一見相性が悪いようにも思えますが、なぜかショパンはジョルジュサンドと恋愛関係になってしまい、2人でマジョルカ島への逃避行を行います。
このショパンの行動には周囲の人間は非常にびっくりしたようです。
「え?ショパン、サンドと付き合ってんの?なんで?」「しかもどっか行っちゃったし・・」
現代に置き換えると、内気な友達が派手なモデルと急に付き合い始めたようなものです。マリアとの交際・破局すら表に出さなかったショパンですから、なおさら周りをびっくりさせたことでしょう。
※ショパンとジョルジュの関係については「ショパン 愛と哀しみの旋律」というポーランド映画があるので、詳しく知りたい方はそちらをご覧ください。
結局体調を悪化させたショパンはバルセロナ・マルセイユを経由してパリに戻ります。その後は冬はパリで活動、夏はサンドの別荘で暮らす生活が始め、この生活を約9年ほど続けました。
代表作「英雄ボロネーズ」もこの時期に生まれています。
ただ、この生活は病弱なショパンにとっては負担が重く、彼の体を蝕んでいきました。
その結果サンドはもはや介護士のような存在になってしまい、サンドは不満を募らせます。最終的にはサンドの子供たちをめぐるトラブルなどの理由からショパンが37歳の時に2人は別れることとなりました。
この別れはショパンが亡くなる2年前のことです。
サンドとの出会いによってショパンの寿命は確実に蝕まれ、名声にも影を落としすことになったのは間違いないでしょう。ショパンが選んだ運命なのですから仕方のないことですが、やはり悪女と呼ばれる女性には気をつけたほうがよいですね。
晩年のショパン
サンドと別れたショパンはパリでの音楽活動を続けますが、サンドとの生活の代償は重く、階段の上り下りすら一人では困難になるほど体は弱っていました。
残された最後の力を使い、38歳の時に「パリでの最後の演奏会」そして「イギリスへの演奏旅行」を行ったのち、ショパンは力尽きました。
享年39歳。ピアノの詩人は数々の名作を残し、この世を去ります。
ショパンの葬儀はパリのマドレーヌ寺院で行われ、モーツァルトのレクイエムが歌われました。現在はフランス パリ ペール・ラシェーズ墓地に眠っており、ショパンの音楽を愛してやまないファンが毎日のように彼の墓に訪れます。
なお、ショパンの葬儀には3,000人近くが参列したといわれていますが、その中にジョルジュ・サンドの姿はありませんでした。彼女との出会いはショパンにとって本当に良いものだったのかは疑問が残ります。
ショパンの名曲
ショパンの代表曲は誰もが聴いたことのある名曲ばかりです。ピアノを習っていた人なら1度は弾いてみたいと思ったことがあるのでは?
幻想即興曲
プロでも難しいとされる幻想即興曲は繊細かつ華やかなメロディーが聴くものを魅了するショパンの代表曲です。ピアノを習ったことがある、もしくは今現在習っている人ならば一度は弾いてみたいと夢見たことがあるのではないでしょうか?
ちなみにショパンはこの曲が好きではなく、何度も焼き捨てようとした失敗作的な存在でした。そのため、生前は発表されなかったといわれています。
英雄ボロネーズ
ジョルジュ・サンドと交際していた時期に作曲されたショパンの傑作「英雄ボロネーズ」。ポロネーズはフランス語で「ポーランドの」という言葉を意味し、3拍子の民族舞踊が元になっています。サビ部分は誰もが知るメロディーです。
革命のエチュード
CMでも度々使われるエネルギッシュな一曲。華麗で美しい曲が多いショパンの中では「激しさ」を持つ曲で、激情的に音階が上下することが特徴です。
祖国ポーランドがロシアに弾圧されたことをキッカケに書かれた曲ですが、もともとは左手のための練習曲です。
なお、革命のいうタイトルはフランツ・リストによって名付けられました。
子犬のワルツ
比較的弾きやすく、メロディーも可愛らしい。ピアノ発表会における定番中の定番曲です。
英雄ボロネーズと同じくジョルジュ・サンドと交際していた時期に書かれた曲で、彼女の飼っていた小犬がモチーフとされています。
ドラマやアニメにも度々登場することから知名度が異様に高いです。
別れの曲
ショパンが「こんな美しい曲は書いたことがはない」と自画自賛するほど気に入っていた美しき名曲。
「別れの曲」はショパンが22歳の時に作曲された曲で、祖国であるポーランドからパリへと拠点を移した際に作られています。人との別れが連想されますが、祖国との別れに思いを寄せた曲です。
まとめ
ショパンはロマンチックで繊細なピアノ曲を書き続けた超一流作曲家です。ピアノ学習者にとってはもっとも馴染みが深いクラシック作曲家だと思います。
有名曲の多さではベートーヴェンやモーツァルトを凌ぐNO.1といっても過言ではなく、誰からも愛される名曲の数々は今も色褪せることはありません。
日々の癒しや勉強用BGMとしてでもオススメですので、今一度彼の曲を聴いてみてはいかがでしょうか?
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