美しきピアノ曲を残したドビュッシーの生涯

ドビュッシーといえば「月の光」。
クラシックにある程度興味をもっている方であっても、大半の人はそのようなイメージをもっていることでしょう。
では、ドビュッシーはどのような時代を生き、どのどのような生涯を送った人物だったのでしょうか?
今回は繊細で美しいピアノ曲の数々を世に残したドビュッシーについて掘り下げていきます。

クラシック音楽 ドビュッシー 生涯

ドビュッシーの作風について

ドビュッシーはフランスの作曲家。1862年にパリ西部に位置するサン=ジェルマン=アン=レーに生まれ、主に「1884年-1916年」の期間において作曲活動を行った人物です。

クラシック音楽史としては印象主義の作曲家に分類され、同時期に活躍したラヴェルらと共にフランス音楽界の一時代を築き上げました。

彼の音楽性の特徴は長調・短調にとらわれず多種多様な旋律を駆使する「広い意味での無調」。シューマンやブラームスといった感情表現を主とするロマン派音楽に対して、自然的な印象を直観的に音で形象化しようと試みました。

その結果生まれたのが風景画のようなドビュッシーの作風です。

印象派 風景画

ドビュッシーは同じフランス作曲であるラヴェル・サンサーンス・フォーレとよく比較されますが、伝統的な作曲技巧を少なからず重視した彼らとは異なり、ドビュッシーはかなり革新的な曲作りを進めたことで知られています。

実際に代表作である「月の光」や「海」などは、既存の形式や和声進行を逸脱して作られており、これまでの常識を打ち破っています。

以上を踏まえ、ドビュッシーは20世紀を生きた作曲家としては、最も音楽界に影響を与えた人物といっても過言ではありません。
尚、ドビュッシーは自身のことを印象派と呼ばれることを嫌っています。
もともと印象派という言葉はクロード・モネの作品『印象・日の出』が由来となって生まれましたが、実はドビュッシーは絵画ではなく、象徴派の詩人に信奉していました。

「自分は象徴派の作曲家である」といったエピソードもあり、印象派と分類されるのはどうやら心外だったようです。

ドビュッシーに影響を受けた音楽ジャンル

・ジャズ
・ミニマルミュージック
・プログレッシブ ロック
・ポップス

彼の音楽性は多種多様のジャンル及び作曲家に大きな影響を与えました。
特にジャズに与えた影響力は大きく、ガーシュウィン、ジャンゴ・ラインハルト、デューク・エリントンといった名立たるアーティストに影響を与えています。

ドビュッシーは有名クラシック音楽家であることには間違いありませんが、クラシック音楽の終焉とポップス音楽の幕開けを呼んだ人物ともいえるわけです。

ドビュッシーの生涯

ドビュッシーの幼少期は目立つエピソードはなく、クラシック音楽家になるための土台を順風満帆に築きあげてきました。

9歳の時にアントワネット・モテ・ド・フルールヴィル夫人から音楽の手ほどきを受け、10歳にしてパリ音楽院に入学。名だたる音楽家たちからピアノ、作曲、伴奏、ソルフェージュといった音楽の基礎を学び、16歳の時にドビュッシーの最古の作品とされているピアノ曲『フーガ』(L番号なし)を作曲します。

ちなみに入学当時はピアニストを目指し、学内コンクールで結果を残し続けていたドビュッシーですが、「1位」になることができなかったため、途中から作曲家に目標を変更しました。
プライドが高いドビュッシーらしい潔い選択です。

作曲

作曲家を志したドビュッシーは20歳からフランスの若手作曲家の登竜門「国民音楽協会」のコンクールに参加し、20歳:予選落ち、21歳:二等賞、と段階を踏み22歳の時にローマ大賞を受賞します。

ローマ賞を受賞するとローマへの留学が与えられるため、22歳〜24歳にかけてはローマにて生活をします。ただ、イタリアの風土との相性が悪かったため、予定よりも早く留学を切り上げてパリに戻りました。
帰国後27歳からは国民音楽協会に所属し、人脈を形成しつつ作曲活動を続けます。
この時期に作曲された主な曲は以下の通りです。

1890年『ピアノと管弦楽のための幻想曲』
1891年 ベルガマスク組曲 第3曲 月の光
1893年『選ばれた乙女』『弦楽四重奏曲』
1899年『牧神の午後への前奏曲』
1900年『ビリティスの歌』『夜想曲』
1904年『版画』
1905年 交響詩『海』、ピアノ曲集『映像 第1集』
1910年『前奏曲集 第1巻』
1913年 バレエ音楽『遊戯』

パリ音楽院〜イタリア留学時代まではチャイコフスキーやロシア5人組、そしてワーグナーの影響を受けていたドビュッシーですが、詩人ステファヌ・マラルメの影響を受け、徐々に調性に拘らない作曲スタイルに変貌を遂げていきます。
特にワーグナーの音楽性に対しては否定的な見解を述べるようになり、アンチワーグナーと化したのは有名なエピソードです。

『牧神の午後への前奏曲』に関して

牧神の午後への前奏曲は詩人マラルメの『牧神の午後』に感銘を受けて書かれた作品であり、印象派音楽の幕開けを呼んだ一曲として現代でも重要視されている曲です。

この曲では不協和音を逆手にとった曖昧でぼんやりとした世界観が構築され、これまでにない斬新な手法と効果的な音使いは初演から高い評価を獲得しました。

晩年のドビュッシー

印象派作曲家として一世を風靡したドビュッシーですが、第一次世界大戦が勃発した1914年頃から大腸がんに苦しむようになり、その4年後の1918年に55年に及ぶ生涯を終えました。
晩年の4年間では『12の練習曲』『6つの古代碑銘』『白と黒で』『チェロソナタ』、そして最後の作品となった『ヴァイオリンソナタ』等が挙げられますが、いずれもマイナーな曲として扱われています。

やはり彼の全盛期は1890年〜1913年辺りといえるでしょう。

女の敵?意外なドビュッシーの性格

作曲家がどんな性格だったのかは意外と気になるポイントです。
穏やかな性格な作曲家もいれば過激な性格の作曲家もいるのがクラシックの世界ですが、ドビュッシーは意外にも過激寄りの性格をしていたことで知られています。

 

パリ音楽院においては「伝統をぶっこわす!」的なノリを常に醸し出していたことで、学院の問題児として扱われ、さらに女性関係にだらしなかったことから様々なトラブルを抱えました。

18歳の頃から人妻と交際し破局。その後同棲した彼女とは自殺未遂騒動(彼女が)の末に破局。しかも同時期には浮気をしていたという記録が残っています。

1899年にはマリ・ロザリー・テクシエと結婚をしますが、再び人妻(エンマ・バルダック)と不倫し、リリーが自殺未遂を起こしたことで1904年に離婚しています。

最後はエンマと同棲をしたのち1904年に結婚をしますが、それまでの行動はとても褒められた行動ではありません。

ドビュッシーは繊細で美しい名曲の数々を残しましたが、女性の敵ともいえる性格であったことは間違いないでしょう。

ドビュッシーの名曲

ドビュッシーの有名曲はピアノ曲が中心です。BGMとしても聴きやすく、ロマン派音楽のように主張しすぎない旋律は現代社会によくマッチしています。

ベルガマスク組曲 第3曲 月の光


ドビュッシーが残した曲において最もポピュラーな曲。分類としては初期の作品であり、和声の調性感が残っています。
ピアニッシモが大半を占める優しく切ない夜想曲ですが、当初は「感傷的な散歩道」というタイトルが付けられていました。月の光の方がシックリくるので、変えてよかったと思います。


交響詩『海』とも呼ばれるこの曲は印象主義音楽を代表する作品であり、海の情景を表した管弦楽曲です。
サンギネール諸島の美しい海をイメージして作曲されたようですが、実際海を見ながら曲を書いたわけではなく、記憶の中の海を呼び起こして曲を書いていったようです。

夢想(夢)


夢想はまだ駆け出しのころのドビュッシーが作り上げた幻想的でロマンティックな曲。本人は後期に書いた曲が好きで初期の作品は好きではないようですが、現代においては殆ど初期の作品が親しまれています。

牧神の午後への前奏曲


ドビュッシーの出世作。この作品をキッカケに、ドビュッシーの作風は大きく変貌を遂げていきました。ただ、当時の音楽では後期の曲の方が好まれましたが、現代社会においては大多数の方が前期の曲の方を好んで聴きます。
無調的な楽曲はなかなかディープでマニアックな世界ですからね。。

まとめ

印象派作曲家の代表的存在であるドビュッシーは着々とキャリアを重ね、クラシック音楽の新たなる歴史を開きました。
ジャズやプログレッシブ ロックといった次世代の音楽ジャンルも彼の影響を大きく受けていることからも、いかにドビュッシーが音楽の歴史において重要な存在であるかがわかります。
初期に残したピアノ曲がよく取り上げられますが、もし興味があれば後期の楽曲も聴いてみるのも面白いかもしれません。

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