ピアノの魔術師 フランツ・リストの生涯

ピアノ学習者なら誰もが一度はフランツ・リストに憧れたことがあると思います。
優雅なショパンに対してテクニカルなリスト。
ピアニストとしてだけでなく、作曲家としても活躍したリストは紛れもなくロマン派作曲家の大御所的存在です。
今回はそんなフランツ・リストがどんな生涯を送った人物なのか紹介していきます。

クラシック作曲家 フランツリスト

ハンガリーに生まれウィーンにて才能を伸ばしたリスト

リストはハンガリー人の父とオーストリア人の母の間に生まれたハンガリー育ちの作曲家です。
ただ、ハンガリー人ではあるものの、家庭内の公用語がドイツ語であったことから生涯ハンガリー語を喋ることはありませんでした。

叔父がヴァイオリニストであったことからリストは幼少期から音楽を嗜み、10歳の頃には一流ピアノプレーヤーとして注目される存在になります。
その後11歳でウィーン音楽院に入学するためにオーストリア ウィーンへ移住。ツェルニーやサリエリといった一流プレーヤーから本格的な音楽教育を受け、才能を開花させていきました。

作曲 試行錯誤

ウィーン音楽院を卒業した後もリストはウィーンに留まり、ベルリオーズ・ショパン・メンデルスゾーン・シューマンといった同時代の名立たる作曲家と交流を深めながら、自身の音楽性をより深めていきます。

そして、19歳を迎えたある日。
リストはヴァイオリンの超絶技巧プレーヤー「パガニーニ」の演奏に感銘を受け、自分はピアノのパガニーニになると決意を固めます。

この出会いこそ、ピアノの魔術師と呼ばれたリストの原点となりました。

ピアノの魔術師と呼ばれたリストの全盛期

ピアノのパガニーニになる

その言葉通りにリストはコンサートで成功を収め続け、パガニーニのコンサートから僅か数年後には「歴代最高のピアニスト」と評価されるようになります。

圧倒的な演奏技術はヨーロッパ中に轟き、「指が6本ある」とも噂され、遂には「今後彼を超えるピアニストは現れない」とまで言われるようになりました。

実際にリストがこの世を去ってから130年が経過した現代においても、彼を越えるピアニストは存在していません。

名実ともに彼は史上最強のピアニストとなったのです。

 

よくリストはショパンの比較対象とされますが、リストは10度の音程を軽々と押さえることが出来る恵まれた「手」を有しており、技巧的な部分においてはショパンより上です。

表現力に関してはショパンに分があるかも知れませんが、技術部門では間違いなくリストが歴代最強といえるでしょう。

※リストとショパンは良く連弾をする仲でしたが、ショパンは技巧面にのめり込みすぎているリストには少し引いていたようです。(テクニック至上主義すぎるだろ・・コイツ。的に)

また、リストはショパンよりもアグレッシブな演奏スタイルであったことも文献に残されています。
サロンピアニストとして繊細な音楽を弾き続けたショパンに対し、リストは情熱的で力強い演奏で聴くものを魅了するプレイスタイルであったようです。

恵まれた「神の手」による情熱的な超絶技巧は幾度のピアノの弦やハンマーを破壊したとの逸話も残されていますが、決してリストの演奏が乱暴だったわけではなく、ピアノの構造がリストの技術についていけなかったから壊れたともいわれています。

尚、リストの演奏にも耐えうるように設計されたピアノ「ベーゼンドルファー」が彼の演奏に耐えきったことも有名なエピソードです。

ピアノ教師としても活躍したリスト

リストはピアニストとして活動する傍ら、ピアノ教師をしても活躍しました。
一般的には「名プレーヤーは名指導者にはなれない」というイメージがありますが、彼は教え方も超一流であり、自分のモノマネではなく生徒の個性を伸ばす教育を行ったようです。

また、リストの凄いところは生徒から月謝を取らなかったこと。
リストは演奏以外でお金を取らないというポリシーを持っており、生徒には無料で指導を行いました。
的確なアドバイスにユーモアのあるレッスンが無料。
指導者としてのリストの評価は誰に聞いてもポジティブな言葉しか返ってこなかったとされています。

超絶モテたイケメン男 リスト

ピアニストとしても指導者としても超一流だったリストはとにかくモテました。
優れた能力を持っていることは勿論、顔がとにかく整っていたからです。

コンサートを行えば取り巻きの女性が殺到し、多数の熱烈なファンが失神するほどの異常な人気を博します。

もはや演奏家というよりもアイドルだったといってもよいでしょう。

フランツリスト アイドル

また、本人自体も超肉食系であったことから、女性をとっかえひっかえしていたプレイボーイであったことでも知られています。

草食系であったショパンとは真逆の性格だったわけです。

 

様々な女性との交流を重ねてきたリストは、20歳前半の頃にマリー・ダグー伯爵夫と交際を開始(いわゆる不倫)。約10年ほど同棲生活を送り、2人の間には3人の子供が生まれました。

しかしカトリックでは離婚が禁止されていたため、2人は婚姻関係を結ぶことはできず、1844年に身分と人種の問題によって別れています。

後期〜晩年におけるリストの活動

ピアニストとして一線を退いた後のリストはドイツ ワイマールにて宮廷楽長の職に就きます。
この時期のリストは主に作曲家として活躍をし、管弦楽曲や交響詩において数々の名作を残しました。

作品名
1848-53年 交響詩「前奏曲」
1851-54年 交響詩「マゼッパ」
1852年頃 管弦楽曲「ハンガリー幻想曲」
1849 – 59年 管弦楽曲「死の舞踏」

ただ、リストはどうしてもピアニスト時代のイメージが強いため、日本ではこの時期に作られた曲はあまり演奏される機会はありません。

そのためピアニストとしてのリストは超メジャーな存在ですが、後期〜晩年にかけての作曲家リストはマイナーな存在といえます。

宗教音楽作曲家となった晩年のリスト

リストは約10年ほど宮廷楽長の任を全うした後、50歳になる頃にローマに移住。下級聖職位(僧職)に就き、カトリック信仰に基づく宗教音楽の作曲に没頭しました。
この頃のリストの作品は徐々は調性を持たない「無調」へと向かっていきます。

1877年に作曲した『エステ荘の噴水』では巧みなアルペジオで水の流れを表現し、ラヴェルやドビュッシーといった印象主義音楽家に大きな影響を与え、1885年に作曲した『無調のバガテル』では無調を宣言し、新たなる音楽の方向性を示しました。

ピアニスト時代の活躍ばかりが目立つリストですが、実は一線を退いた後も作曲家として音楽界に影響を与え続けていたのです。

フランツリスト 楽譜

尚、リストは作曲家としては「革新派」にあたり、ワーグナーらと共に新ドイツ派と呼ばれています。ピアノのパガニーニとなることを決意した若かりし時と同じように、リストは生涯にわたって常に新しい道を模索しつづけました。
最後を迎えたのは1886年。慢性気道閉塞と心筋梗塞によって74年の生涯を終えます。
ショパンと同じ時代を生きた為、あまり長生きのイメージはありませんが、実はロマン派音楽家としては大往生した人物だったわけです。

リストが残した名作品

リストはピアノの魔術師と呼ばれていただけあり、人気作はピアノ曲に集中しています。
テクニカルな曲が多いせいか、ピアノ上級者のレパートリーとして親しまれている曲が多いです。

-愛の夢 第3番-

様々なメディアで度々使用されるリストの代表曲。リストにしては珍しくロマンティックな曲調であり、ピアノ愛好家のみならず、普段クラシックを聴かない人からも親しまれています。

愛の夢は「3つの夜想曲」という副題を持っており全部で3曲存在しますが、この第3番が圧倒的に人気です。

-ラ・カンパネラ-

リストといえばラ・カンパネラ。魂のピアニスト フジコヘミング氏の十八番としても有名な曲です。

ラ・カンパネラはイタリア語で「鐘」を意味し、曲中の至るところで至る所で「鐘の音」をイメージした高音が鳴り響きます。

ハンガリー狂詩曲 第2番

「ハンガリー狂詩曲」はハンガリーの民俗舞曲を用いた全19曲からなる、ハンガリーへの想いが詰まった名曲集です。ジプシーたちの生活と音楽を表現した「ハンガリー的なもの」として作曲されていることが特徴であり、特に第2番嬰ハ短調は世界中で人気を博しています。

メフィストワルツ第1番「村の居酒屋での踊り」

メフィストワルツはリストのピアノ曲の中でも難易度の高い、激しく派手な曲として知られています。

同タイトルは1番〜4番まで存在しますが、「村の居酒屋での踊り」というタイトルがつけられたこの第1番が最も有名です。

冒頭の8分の3拍子での和音の積み重ねは一度聴くと強く印象に残ります。

まとめ

ピアノの魔術師と称され、まさにピアノのパガニーニとなったリスト。
超絶的なテクニックを駆使したピアノ曲の数々は死後130年が経過した現代においてもクラシックファンに愛され続けています。

またリストはピアニストとして一線を退いた後も「作曲家」として音楽界に大きな影響を残しました。

間違いなく彼はロマン派を代表する音楽家であり、クラシック音楽史の重要人物だといえるでしょう。

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