交響曲の父 ハイドンの生涯

「フランツ・ヨーゼフ・ハイドン」。
クラシックに詳しい方ならよくご存じの名前だと思いますが、あまり音楽に興味がない方にとっては「名前だけは聞いたことがある・・・」といった印象の作曲家だと思います。
彼は交響曲の父と呼ばれ、ベートーヴェンやモーツァルトといった作曲家と並ぶ古典派を代表する作曲家です。CMでよく流れるようなメジャーな作曲家ではありませんが、クラシックの歴史においては非常に重要な人物です
今回はそんなハイドンについてほりさげていきます。

クラシック音楽家 ハイドン

 

聖歌隊と一員として活躍したハイドンの幼少期

ハイドンはオーストリア出身の作曲家。ハンガリーとの国境にあるニーダーエスターライヒ州ローラウ村にて生まれ育ちました。
類まれな才能を持っていた彼は6歳の時に本格的な音楽の勉強を開始し、8歳の時に聖シュテファン大聖堂聖歌隊監督ゲオルク・フォン・ロイターによって音楽の都ウィーンに迎えられます。
彼がスカウトされた要因はその「歌声」。
ハイドンといえば交響曲のイメージが強いですが、彼のキャリアは聖歌隊員としてスタートすることとなります。

聖歌隊

音楽の基礎を叩き込まれる

ハイドンは聖歌隊の一員としてハイドン約9年間働き、その間にラテン語や一般教養、さらに音楽教育を施されます。この音楽教育にはチェンバロやヴァイオリンといった定番楽器の奏法も含まれており、ハイドンはこの時期に作曲家となるための大きな財産を得ます。
ただ、聖歌隊では作曲のカリキュラムは組まれていなかったため、作曲に関しては当時はまだ素人だったそうです。

聖歌隊として活躍したハイドンですが、やがて聖歌隊を去る時が来ました。
そう、変声期が来てしまったのです。

変声期がきても上手くキャリアを伸ばせる人もいますが、ハイドンは残念ながらそうはならず、高音域が歌えないことに拠り解雇。
若くして仕事を失うことになったハイドンは途方にくれましたが、演奏家ではなくフリーの作曲家に転身し新たな一歩を踏み出します。

貴族御用達の作曲家として活躍

フリーの作曲家として成功するため、ハイドンは作曲理論や奏法について猛勉強し、弦楽四重奏やオペラを中心に名声を高めていきます。
彼の作風はこのころから徐々に定まっていったようです。

弦楽四重奏 ハイドン

フリー転身から約10年がたった1759年のこと、実力を認めてくれたカール・モルツィン伯の宮廷楽長の職に定着したことで、ハイドンはフリーの作曲家から勤め人となります。
この時代では小オペラの指導や弦楽アンサンブル曲、交響曲の作曲に携わり、長所を伸ばし着々とキャリアを重ねていきます。
しかし、僅か一年余りでモルツィン伯の経済面が苦しくなり、ハイドンは折角就いた宮廷楽長のスグに失うことになります。

とはいっても、実力さえあれば次の仕事が容易く見つかるのは今も昔も同じこと。1761年には有名貴族エステルハージ家の副楽長に就任(すぐに楽長に昇進)します。

今度の職場は福利厚生が整った云わば大企業。
エステルハージ家当主ニコラウス・エステルハージ侯爵が音楽がハイドンの良き理解者であったこともあり、貴族御用達の作曲家として約30年間務めあげることとなりました。

また、ニコラウス・エステルハージ侯爵は作曲家として最高の環境を発揮させるために、専属の小オーケストラを毎日貸していたという逸話があります。

このような恵まれた環境があったからこそ、ハイドンは交響曲という難しいジャンルの曲を量産できたともいえます。

エステルハージ家以外の仕事もこなすように

確固たる実力を身に着けたハイドンは海外からの人気も博すようになり、エステルハージ家の仕事以外の作曲にも携わるようになります。
この時期のハイドンは交響曲や弦楽曲を中心に膨大な数の曲を残しており、各地のその名声を轟かせました。

定年退職!ハイドンの老後

エステルハージ家に勤めてから30年余りが過ぎたころ、遂に当主ニコラウス・エステルハージ侯爵がこの世を去ります。跡継ぎとしてアントン・エステルハージ侯爵が就任しましたが、この侯爵は音楽に興味のないハイドンにとって最悪の人物でした。
全く音楽に興味がないということは、ハイドンの活動なんてどうでもいいわけであり、就任後まもなく「君、定年退職」と言われ、ハイドンはエステルハージ家での仕事に終止符を打たれます。

ただ、エステルハージ家は現代の大企業。首ではなく定年退職なため、年金が貰えます。
そのため、ハイドンは安定した基盤の中で作曲活動を行いながら余生を過ごしました。

最後まで成功者であったハイドン

ハイドンは1791年〜1795年の間(1793年は除く)、音楽関係の興行主ヨハン・ペーター・ザーロモンによるイギリスでの交響曲演奏プロジェクトに参加。
「パリ交響曲Hob.1-82~87」「十字架上のキリストの最後の7つの言葉Hob.20-2」といった名曲を発表し、名声を得ます。

その後ハイドンは再びウィーンに戻り、イギリスでの成功によって稼いだ資産を元に豪邸を建設。年金+贅沢な資金による貧困とは無縁の創作セカンドライフをエンジョイします。

ハイドン 大豪邸

1792年にはベートーヴェンがハイドンの元を訪ねたことをキッカケに、彼を弟子として約2年ほど指導に当たります。
1796年からは再びエステルハージ家にて貴族御用達の作曲家として活躍。(音楽好きな侯爵に変わったため)晩年においても数々の名作を残しました。

定年後も精力的に創作活動を行ってきたハイドンですが、60歳を超えたあたりから次第に体力が衰えていき、1802年には殆ど作曲が出来ないほど持病を悪化させます。そして、4年後の1806年にハイドン(77歳)はこの世を去りました。

晩年は病を抱えた日々となりましたが、最後まで恵まれた環境の中で創作活動に打ち込めた幸せな作曲人生であったことは言うまでもありません。

押さえておきたいハイドンの名曲

弦楽四重奏曲ハ長調作品76-3「皇帝」

もっとも有名なハイドンの曲といっても過言ではない「皇帝」。第2楽章の主題は現在のドイツ国歌となっています。

 

交響曲第45番 「告別」 嬰ヘ短調 Hob.I:45

ハイドンの交響曲はナンバーが後半の作品の方が有名なのですが、告別だけは国内のオーケストラでも演奏される機会が多い作品です。

交響曲第104番「ロンドン」

明るく優雅な旋律が魅力的なロンドン。ハイドンが作曲した最後の交響曲であると同時にハイドンの代表曲の一つです。ロンドンという愛称で知られていますが、実はウィーンで作曲されており、特別な意味はありません。

 

まとめ

ハイドンは激動の人生を送ったモーツァルトやベートーヴェンと比較すると非常に恵まれた環境で創作人生を送ることができた人物です。
1000曲以上の曲を作り上げ、古典派音楽の確立と交響曲や弦楽四重奏の様式を完成させた功績から交響曲の父と称されるようになりました。
雇われ作曲家として主に貴族向けの作品作っていたため、現代では目立たない存在となっていますが、間違いなく古典派作曲家の頂点に属する人物です。

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