裕福な生涯を送った優等生メンデルスゾーン

「フェリックス・メンデルスゾーン」。
印象的な名前をしているため、聞き覚えのある方も多いでしょう。
実は彼は結婚式の定番BGM「結婚行進曲」の作者であり、ドイツロマン派を代表する超一流音楽家として名を馳せた人物です。
今回はそんなメンデルスゾーンがどんな生涯を歩んだか掘り下げていきます。

クラシック作曲家 メンデルスゾーン

※この記事では文脈によりメンデルスゾーンをフェリックスと呼ぶこともありますが、フェリックス=メンデルスゾーンとお考え下さい。

神童として幼少期から活躍

クラシック作曲家は裕福な家庭に育ったタイプと貧困に喘ぎながらも伸し上がってきたタイプがいます。
メンデルスゾーンは完全に前者であり、ドイツハンブルグの銀行家アブラハム・メンデルスゾーンとレア・ザロモン(ドイツ語版)の息子として生まれました。

所謂お金持ちの家に生まれた「純粋培養のお坊ちゃま」です。

豪邸

メンデルスゾーンがまだ幼い頃に両親の仕事の都合からベルリンに移住。
この移住をキッカケに両親は4人の子供(フェリックスは上から2番目)に知的教育及び高度な音楽教育を施します。

メンデルスゾーン一家の豪邸は様々な芸術家が日々訪れる夢のような環境であり、高度な芸術と常に触れ合う機会がありました。そして、この恵まれた環境によって彼らの感性を大きく磨かれます。

同時期の有名作曲家であるベルリオーズやシューマンも裕福な家庭にて育った人物でしたが、メンデルスゾーンに至ってはその比ではありません。

間違いなくクラシック音楽家としてはぶっちぎりトップの金持ちでしょう。

ベートーヴェンやシューベルトにとっては嫉妬で憤慨しそうですね。

 

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6歳からピアノを始めたメンデルスゾーンはベルリン移住後、作曲家でありピアノ教師であった「ルートヴィヒ・ベルガー」にピアノを学びます。当初は4人姉弟共にベルガーの指導を受けましたが、最終的に音楽への興味を抱き続けたのはフェリックスと姉のファニーの2人であったようです。

その後フェリックスとファニーは作曲法を「カール・フリードリヒ・ツェルター」に師事します。
ツェルターはヴィルヘルム・フリーデマン・バッハの教え子であった大祖母の紹介によりフェリックス姉弟の師となった人物であり、先代バッハから伝わる対位法技術を得意としていました。

そんなツェルターの指導を受けたフェリックスは次第に「バロック音楽や初期古典派」を重んじる作曲スタイルをとるようになり、やがて伝統的なドイツ作曲家として開花していきます。

なお、姉ファニーも優れた才能を発揮し、作曲家・ピアノストとして活動を開始。姉弟の中は非常に良好であり、生涯に渡り良き理解者としてお互いを支え合いました。(若干シスコン・ブラコン気味)

華麗なる若年期を過ごしたメンデルスゾーン

メンデルスゾーンは9歳にして早くも頭角を現し、神童として崇められます。
もちろんその背景には一家の財力も影響しており、フェリックスの楽曲を演奏するためのオーケストラが用意されたり、作品の出版に一役買って出るといったサポートも大きな力となったことでしょう。

12歳の時には文豪ゲーテにモーツァルトを超える神童だと評価され、14歳の時には大祖母からバッハの「マタイ受難曲」のスコアを渡されたことをキッカケに「バッハ」に対する興味をさらに膨らませます。

16歳の時には彼の代表曲である「弦楽八重奏曲 変ホ長調 Op.20」やシェイクスピアの「夏の夜の夢」を元にして作曲した「序曲」を作り上げ、大きな名声を得ます。

そして20歳になったフェリックスは歴史に埋もれていたバッハの「マタイ受難曲」を自らの指揮により復刻公演を果たし、大成功をおさめます。

クラシックコンサート

この公演には国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世や詩人ハイネといった著名人を含む数千人が訪れたと記録が残っています。

尚、この公演の利益は貧困に苦しむ少女の為の裁縫学校の設立に使われました。流石は大金持ち。やることのスケールが違います。
このように超一流の家庭に育ったフェリックスは成人するまでに音楽家として申し分ない功績を上げ、若くして絶大な支持を受ける超有名人となりました。

また、美術や哲学、古典学といった音楽以外の芸術分野に関しても彼は精通しており、博識者としての高い評価も得ます。

実力、名声、家柄、性格。すべてにおいて優れている彼はまさに完璧超人といっても過言ではない存在でした。

※性格に関しては現代においても過大評価されている節があり、実際はユダヤ人であることで差別を受けたことから、やや捻くれていた部分もあったそうです。

着々とキャリアを重ねた20代

20歳を迎えたメンデルスゾーンが行ったのはウィーン・フィレンツェ・ローマといった年での演奏旅行です。この旅で各地の音楽家や画家との交流を深めた彼は、翌年以降「イタリア交響曲」といった旅からインスピレーションを受けた作品を作り上げました。

そして演奏旅行を終えた後は、デュッセルドルフ(ドイツ)とイギリスを拠点とし音楽活動を展開させていきます。

デュッセルドルフでは1833年に音楽監督に就任し、ライン音楽祭といった名だたる音楽祭の指揮を担当。

イギリスにおいては計10回の演奏旅行を通し、序曲「フィンガルの洞窟」と「スコットランド交響曲」といった代表作を作曲。また、ヘンデルのオラトリオをバッハの時と同様に復刻公演し、バロック音楽の再評価を進めました。

1847年のイギリス演奏旅行の際にはフィルハーモニック管弦楽団の演奏にてベートーヴェン「ピアノ協奏曲第4番」のソリストを務め上げる活躍を見せ、同公演においては更に「スコットランド交響曲」を自らの指揮で発表。

この公演にはヴィクトリア女王も姿を見せており、メンデルスゾーンに対する評価の高さが伺えます。

時には公演が不評に終わり、時にはベルリン・ジングアカデミーの音楽監督就任選挙に落選するなど、メンデルスゾーンの20代は全てが順調とはいえませんでした。

ただ、8割方の活動においては大きな成功を収め続け、結果的にはクラシック音楽家としては挫折知らずの人生を歩んだといえます。

晩年のメンデルスゾーン

1835年にライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者に任命されたメンデルスゾーンはデュッセルドルフからライプツィヒへ移住。この地では「音楽水準の向上」に趣をおいた活動を展開します。

メンデルスゾーンは作曲や合唱団の組織作りなど多岐にわたる活動を行いましたが、最も力をいれていたのは演奏会です。毎回好評を博していた演奏会では自作曲のみならず、有望な若手の曲や過去に埋もれた名曲の復刻にも尽力。シューベルトの「交響曲第8番」がメンデルスゾーンによって公演されたことは有名なエピソードとして残っています。

また自作曲においてはオラトリオ「聖パウロ」や劇付随音楽「夏の夜の夢 Op.61」を作曲し、名声を博しました。

尚、夏の夜の夢 Op.61には有名な結婚行進曲も含まれています。

1843年には現在のフェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ音楽演劇大学ライプツィヒにあたるライプツィヒ音楽院を設立。学院長として若手音楽家の指導に当たりました。

38歳の11月5日に息を引き取る

精力的にライプツィヒにて音楽活動を行っていたメンデルスゾーンですが、1847年5月に姉ファニーが脳卒中で息を引き取ったことをキッカケに体調を大きく崩します。

もともと晩年は過労から体調を崩しがちでしたが、心の支えである姉を失ったダメージはすこぶる大きく、姉の死から約半年後に自らも息を引き取りました。

死因はくも膜下出血と言われていますが、祖父・姉・両親全員が脳卒中で亡くなっていることから、遺伝的な何かがあったとのではないかと推測されています。

死後はユダヤ人であったことから不当に低い評価を受ける時期もありましたが、現代においては歴史的作曲家としての評価を取り戻しています。

メンデルスゾーンの名曲

メンデルスゾーンは裕福な人生を最後まで送った稀有な存在ですが、彼が作り上げた曲もその人柄の人生を象徴しているかのような穏やかな曲が多いです。

劇付随音楽「夏の夜の夢」作品61 より「結婚行進曲」


誰もが知るクラシックの名曲「結婚行進曲」。劇付随音楽「真夏の夜の夢」の第9曲目にあたります。

無言歌集より 「春の歌」 作品62-6

メンデルスゾーンのピアノ曲としては最も有名な曲。流れるような美しい伴奏が特徴的であり、ピアノ発表会でよく演奏されることも多い人気曲です。

歌の翼に


上品で美しいまさにメンデルスゾーンらしい一曲。もともとは歌曲として作曲されましたが、ピアノソロやヴァイオリンで演奏されることも多いです。

ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 作品64

通称「メン・コン」と呼ばれるンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲。絶対に誰もが一度は聴いたことがある名曲です。

まとめ

メンデルスゾーンは裕福な家庭に生まれ、最後まで裕福な人生を送った恵まれた作曲家です。優雅で美しい楽曲を残したことは勿論のこと、バロック音楽の復刻や音楽家の育成・発掘にも力を入れ、多大な功績を残しました。

曲に狂気染みたエネルギーがないことから「好き嫌い」が別れる作曲家ですが、好きな人からは非常に人気の高い作曲家です。

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