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20世紀最強のピアニスト ラフマニノフの生涯と代表作

ラフマニノフ クラシック作曲家

クラシック音楽史を代表とするピアニストといえばショパン・リストが有名ですが、ラフマニノフの存在も忘れてはいけません。

ラフマニノフは前衛的な音楽が主流となった20世紀においても美しき作風を貫き通し、「ピアノ協奏曲第2番」や「」といった名作を残した名プレーヤー兼作曲家です。

今回はそんなラフマニノフの生涯について掘り下げていきます。

名前は知ってるけど、どんな人物だったか知らない人が多いので、この機会に少しでも詳しくなっておきましょう!

浅田真央さんがプログラムにラフマニノフの曲を採用したことで、知名度が一気に上がりました。

ラフマニノフの生い立ち

ラフマニノフは1873年4月1日にロシア ノヴゴロド州セミョノヴォに生まれ、4歳にして早くも音楽の才能を発揮します。

その後ピアノ教師としてアンナ・オルナーツカヤの勧めもあり、ペテルブルク音楽院の幼年クラスに入学。音楽家としての第一歩を歩み始めました。

ラフマニノフ ペテルブルク音楽院

しかし、ラフマニノフの一家は貧しく、9歳のころに破産。

さらには両親の離婚、姉との死別といった不幸が続き、ラフマニノフは過酷な幼少期を過ごすことになります。

その影響もあってからペテルブルク音楽院での勉強は身に入らず、従兄に当たるピアニストのアレクサンドル・ジロティの助言により、モスクワ音楽院に転入。

ピアニスト兼音楽教師であるニコライ・ズヴェーレフの家に寄宿することが決まり、以後ラフマニノフはピアノ漬けの毎日を送りました。

ピアノ演奏

ピアニスト/作曲家としての頭角を現す

ニコライ・ズヴェーレフの指導により、才能を着々と伸ばしたラフマニノフはピアニストとして頭角を現し、18歳でモスクワ音楽院ピアノ科を大金メダルを得て卒業。

また、在学中には対位法や和声も学び、作曲分野でもロシア屈指の作曲家チャイコフスキーに才能を認められるほどに成長しました。

翌年には同院の作曲科も卒業し、作曲科の卒業制作においても金メダルを受賞します。

音楽院生としては、まさに「文句のつけようがない成績」を残しました。

挫折と名声

モスクワ音楽院を最高の成績にて卒業したラフマニノフは1895年に交響曲第1番を完成させ、2年後の1897年に初演。

華々しいデビューを飾、、、れませんでした。

ピアノ コンサート 失敗

実はこの交響曲第1番の公演は大失敗に終わり、ラフマニノフは大きく叩かれます。

初演から凄まじいバッシングを浴びたラフマニノフは強く落ち込み、完全に自信喪失。

以後、作曲が出来なくなり、ピアニストとしての活動に専念することとなります。

※この時期には指揮者として活動していますが、実は指揮者としても優秀で、高い評価を残したというエピソードが残っています。

作曲家ラフマニノフの休眠はしばらく続きましたが、親交のあった劇作家アントン・チェーホフの励ましや、精神科医のニコライ・ダーリの診療によって徐々に自信を回復させ、1900年に超有名曲「ピアノ協奏曲第2番」を作曲。

初公演では自らピアノを演奏し、見事に大成功をおさめます。

クラシック音楽 コンサート

この作品によって作曲家としての名声を得た後、ラフマニノフは従姉のナターリヤ・サーチナと結婚。

公私ともに順風満帆な時期を迎えます。

この時期の作られた主な曲

 

「12の歌曲集」
オペラ『けちな騎士』
オペラ『フランチェスカ・ダ・リミニ』
交響曲第2番

リストと並ぶピアノの名手

ラフマニノフはフランツリストと並ぶピアノの名手として有名な作曲家です。

身長約2メートルの恵まれた体と12度の音程を左手で押さえることができた神の手によってどんな難曲も軽々と弾きこなしたといわれています。

ラフマニノフ 指

また、軽やかで煌びやかなリストに対して、ラフマニノフは重厚な和音を奏でる才能に長けたプレーヤーであり、ラフマニノフが書き上げた名曲には重々しい和音が至る所に現れます。

ラフマニノフの「重厚な和音」は聖堂の鐘の響きからインスピレーションを得たともいわれています。

国際的な活躍と祖国の喪失

「ピアノ協奏曲第2番」「交響曲第2番」により、国際的な評価を高めたラフマニノフは1909年にニューヨークにてピアノ協奏曲第3番を公演。ここでも名声を得ることに成功します。

1913年にはローマに滞在し、敬愛チャイコフスキーがかつて滞在した家を借り、合唱交響曲『鐘』を作曲。

その後はスカンディナヴィア諸国・デンマーク・アメリカへと渡り歩き、コンサート・ピアニストとして多忙な毎日を過ごします。

ただ、ここで一つ気になることがあります。

それは国際的に活躍を収める一方で、祖国ロシアでの活動がまったく無いことです。

ラフマニノフと十月革命

ラフマニノフがロシアで活動していなかった理由はロシアにおいて十月革命が起こったことにあります。

ラフマニノフの実家は没落したとはいえ、貴族の家系でした。そのため、十月革命によって帝政が崩壊したロシアに住み続けることが困難になり、革命後は国外で活動せざるを得なくなったというわけです。

また、祖国を失ったことに拠っての作曲に対するモチベーションが湧かなくなったことにより、作曲家ではなくピアニストとしての活動が中心になりました。

1926年にピアノ協奏曲第4番を作曲するまでは目立った作曲活動を行ってはおらず、2度目の休眠を迎えたといっても良いでしょう。

作曲 休眠

とはいえ、ヴァイオリニスト「フリッツ・クライスラー」と共演による録音を行ったり、有名ピアノメーカー「スタインウェイ」から楽器の提供を受けるなど、実りのある生活を送ってはいました。

世界中の音楽関係者と密接な関係を持てたのはラフマニノフにとっては幸せなことだったのかもしれません。

ラフマニノフの晩年

1931年にラフマニノフはスイスのルツェルン湖畔に別荘「セナール」を建設。以後10年ほどこの地で過ごし、パガニーニの主題による狂詩曲や交響曲第3番といった晩年の名曲を残します。

1942年には第二次世界大戦の影響から、家族と一緒にカリフォルニア州のビバリーヒルズに移住。

体調不良に悩まされながらも演奏活動をつづけ、最後の作品となる「交響的舞曲」をロングアイランドにて完成させました。

しかし、蓄積疲労により、1942年末には癌が発覚。その数か月後の1943年3月28日にその生涯を終えました。

当時の評価は不人気?

ラフマニノフは20世紀のロシアを代表とする作曲家ですが、ショスタコーヴィチやプロコフィエフのような前衛的な音楽には進まず、伝統的な調性音楽の枠内にロマン派的な手法を貫き通したことで知られています。

今でこそラフマニノフのロマンティックな旋律は高い評価を獲得していますが、当時の音楽界では批評家から絶望的に時代遅れと称され、かなり叩かれました。

音楽家 批判

とはいえ、彼を批判するのは音楽家たちが大半であり、一般的な聴衆からは絶大な人気を誇っていたといわれています。

不人気だったという話は真実でもあり、間違いでもあるわけです。

ラフマニノフの代表曲

ラフマニノフの代表曲は短調が中心であり、重厚な印象を与えます。しかし、ただ重いだけでなく、ロマンティックな旋律が展開されるのが魅力です。

クラシック初心者にとっても聴きやすく、現代においても演奏される機会が多いです。

ピアノ協奏曲第2番 ハ短調 作品18


高度な演奏技巧が要求されるピアノ曲屈指の難曲。2013〜2014シーズンにおいて浅田真央選手がフリープログラムに使用したことでも有名です。
ラフマニノフの括りを飛び越え、全てのピアノ協奏曲の中でも1位・2位を争う人気曲としても知られています。

前奏曲 嬰ハ短調 「鐘」


19才のときに作曲されたラフマニノフの出世作。「鐘」はクレムリン宮殿の荘厳な鐘の音がモチーフになっているという噂です。

こちらも2009-2010シーズンにおいて浅田真央選手のフリープログラムに採用されています。

パガニーニの主題による狂詩曲より”第18変奏”


パガニーニの無伴奏ヴァイオリンのための「24の奇想曲」の第24曲の主題をピアノ変奏曲にアレンジした曲。ピアノ協奏曲として演奏され、第18変奏は特に有名です。

最後に

ロシアを愛したラフマニノフは、故郷を追われた後も、祖国で貧困に喘ぐ芸術家や団体を金銭的にサポートし、生涯に渡って祖国と音楽の為に生きた真面目な人物です。

前衛には進まず、自身の個性を追い続けた結果、現代でも愛され続ける名作を多数作曲しました。

美しいピアノの旋律はクラシックにファンのみならず、誰が聴いても素晴らしいと思うはずです。この機会に、一度ラフマニノフの曲をじっくり聴いてみてはいかがでしょうか?

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