2019年4月より 日本バイオリン製作研究会に所属することになりました。

前衛的オペラ作曲家「リヒャルト・シュトラウス」の生涯と作品

リヒャルト・シュトラウス

リヒャルト・シュトラウスはロマン派を代表するオペラの作曲家です。

指揮者としても活躍したシュトラウスは「サロメ」「ばらの騎士」「ドンファン」「英雄の生涯」といった名作を世に残し、器楽曲からオペラに至るまで幅広いジャンルで名声を博しました。

今回はリヒャルト・シュトラウスについて掘り下げていきます。

オペラに興味がある方でないと馴染みが薄い作曲家ではありますが、是非読んでみてください。

ちなみにヨハン・シュトラウスとリヒャルト・シュトラウスは全く関係ない人物です。

若くして音楽家として頭角を表したシュトラウス

リヒャルト・シュトラウスはバイエルン王国ミュンヘンにて生まれ、ホルン奏者であった父の元、音楽の英才教育を受けて育ちましたドイツの作曲家です。

若くして頭角を現し、21歳にしてマイニンゲン宮廷楽団の指揮者に就任した経歴から、クラシック作曲家としては堅実な道を歩んできた人物だといえます。

ロマン派音楽

そんなシュトラウスの作曲スタイルはかなりの保守寄り。

具志堅用高さんのような見た目をしていながら、モーツァルトやブラームス・メンデルスゾーンに近い伝統を重んじる硬派な音楽を作っていました。

ただ、その作曲スタイルはヴァイオリン奏者アレクサンダー・リッターとの出会いによって一変します。

アレクサンダーリッター

アレクサンダー・リッターはマイニンゲン宮廷楽団のコンサートマスター。指揮者に就任したシュトラウスとは自然と密接な関係となります。

彼は、若きリヒャルト・シュトラウスを支えると同時に、自身がワーグナーを崇拝する革新派だったことから、ストラウスに対しても革新的な音楽のDNAを吹き込んでいきました。

これによりシュトラウスは徐々に影響を受け、2人の出会いから数年が経つ頃には、保守的な作風から革新的な作風へと変貌を遂げていきます。

『指揮者としてのスタイル』

 

シュトラウスは激しい身振りにてタクトを振るうダイナミックな指揮スタイルであり、賛否両論を巻き起しながらもミュンヘン、ベルリン及びウィーンの歌劇場でも指揮者を務めました。ただ、全盛期を迎えるころには徐々に落ち着きを見せるようになり、次第に簡潔で落ち着いた指揮を振るうようになったといわれています。

劇・交響詩作曲家として名声を博す

アレクサンダー・リッターとの出会いから僅か4年後には交響詩『ドン・ファン』を作曲。作品には賛否両論が起こりましたが、シュトラウスはこの『ドン・ファン』にて自身の方向性を完全に確立しました。

その後は『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』『ツァラトゥストラはかく語りき』といった作品を残し、指揮者としてもバイロイト音楽祭で『タンホイザー』を指揮するなど大きな名声を博します。

指揮者

また、私生活では30歳になるころにソプラノ歌手のパウリーネ・デ・アーナと結婚。パウリーネ・デ・アーナは恐妻家であり、シュトラウスは相当苦労したエピソードが残されていますが、妻に対する愚痴や苛立ちがインスピレーションにも繋がり、妻をモチーフにした歌劇『インテルメッツォ』『家庭交響曲』『影のない女』といった人気作品が生まれました。

※一般的には失敗だった結婚といえますが、作曲家としては悪いことばかりではなかったようです

リヒャルト・シュトラウス オペラ作曲家になる

リヒャルト・シュトラウスは34歳の時に交響詩『英雄の生涯』を作曲した後、オペラ作曲家としての活動をメインとしていきました。ただ、いくらシュトラウスとはいえ、勝手の違うオペラでは順風満帆にキャリアを積めませんでした。

最初の『グントラム』『火の危機』といった作品は評価を受けず、転向後約6年ほどは冬の時代を迎えます。

オペラ音楽

しかしながら、優れた才能を持つリヒャルト・シュトラウスがそのまま腐るはずもなく、41歳の時に作り上げたオスカー・ワイルドの戯曲のドイツ語訳作品『サロメ』が大ヒット。一気に一流オペラ作曲家の仲間入りを果たします。

サロメ=聖書を題材にした官能的な内容なオペラ。音楽性の前衛的であり、不協和音がふんだんに取り入れられていることが特徴です。

サロメのヒット後はさらに前衛的な作風を加速させ、『ばらの騎士』といった作品を作曲。無調に近い音楽構成でありながらも喜劇の比率が高いという圧倒的な個性を発揮しました。

最後のオペラとなった『カプリッチョ』を書き終えるまでシュトラウスは精力的にオペラを作曲し、引退するころには「器楽曲」と「オペラ」の両方で代表作を残した超一流作曲家として名を残しました。

リヒャルト・シュトラウスの晩年

輝かしい功績を残したリヒャルト・シュトラウスですが、晩年はナチス政治に関わったとして、非難を受けました。

内容としては、ナチスの要請に応じた音楽活動を行い、帝国音楽院総裁の地位についたことが挙げられます。

第二次世界大戦終結後にはナチスに協力した疑いから裁判にかけられる事態にまで陥りましたが、結局は無罪となりました。

裁判

※家族にユダヤの血筋が流れていたシュトラウス一家にとって、要請を断れば迫害を受ける可能性があったため、強力せざるを得なかったという意見が強いです。

無罪とはなりましたが、シュトラウスは裁判の被告となったことは事実。以降は表立った活動が大きく制限され、余生を静かに過ごすことになります。

ただ、大規模なオペラや交響詩は作れなくなったとはいえ、細々と歌曲や器楽曲の作曲は続け、84歳にして『4つの最後の歌』という有名歌曲を残しました。

リヒャルト・シュトラウスが最後を迎えたのは、その翌年(1949年9月8日)。ドイツのガルミッシュ=パルテンキルヒェンにてその生涯を終えました。

葬儀では彼の代表曲『ばらの騎士』第3幕の三重唱が演奏されたそうです。

リヒャルト・シュトラウスの有名作品

保守派の作曲家として器楽曲や交響詩を残した青年期、前衛的なオペラ作曲家として名を馳せた全盛期、隠居生活を送りながらも歌曲を作り続けた晩年。
リヒャルト・シュトラウスが残した素晴らしき名曲の数々は時期によって様々な表情を見せます。

ヴァイオリンソナタ


1887年から1888年にかけて作曲したリヒャルト・シュトラウス唯一のヴァイオリンソナタ。作風が交響詩にシフトする直前の曲であり、伝統的な3楽章形式で楽曲が構成されています。

シュトラウス自身がヴァイオリンの演奏に長けていたこともあり、非常に技巧的な内容となっています。

ホルン協奏曲 第1番


まだシュトラウスが前衛的な音楽にのめり込む前の作品。ホルン奏者であった父の影響を受けて作曲された作品であり、モーツァルトのホルン協奏曲に次ぐ演奏頻度を持ちます。

ちなみにシュトラウスは2曲ホルン協奏曲を書き上げましたが、断然1番の方が人気です。

オーボエ協奏曲


オーボエ協奏曲ニ長調はリヒャルト・シュトラウスが82歳の時に書き上げた傑作。この時代のシュトラウスは隠居生活の影響からか前衛的な作曲スタイルから若き時代を彷彿とさせる保守的な音楽に戻っており、古典様式にて楽曲が構成されています。

晩年は歌曲を中心に作曲活動を行っていたシュトラウスですが、実はこのような名曲も残しているのです。

英雄の生涯


リヒャルト・シュトラウスが最後に作曲した交響詩。総勢105名、4管編成のオーケストラが演奏に必要となる大規模編成であることに加え、技巧的にもかなり難しいことから、奏者泣かせの楽曲をして知られています。

1.英雄 2.英雄の敵 3.英雄の伴侶 4.英雄の戦場 5.英雄の業績 6.英雄の隠遁

上記6つの部分から楽曲が成り立ち、切れ目なく演奏されることも特徴です。

サロメ


オペラにおけるリヒャルト・シュトラウスの出世作。交響詩の作曲を通じて培った管弦楽法が存分に発揮された彼の集大成ともいえる作品です。前奏なしの4場構成となっていて、演奏時間は約1時間45分。第4場の「サロメの踊り(7つのヴェールの踊り)」が有名で、単独で演奏されることも稀にあります。

最後に

リヒャルト・シュトラウスは現代においての知名度こそ高くはありませんが、交響詩・オペラにおいて名声を博した超一流作曲家です。全盛期に前衛的なオペラを作曲していたため、若干とっつきにくい作曲家ではありますが、青年期・晩年に作曲された曲は誰にでも聴きやすい曲が数多く残されています。

クラシック作曲家としては珍しく85歳まで生きた人物でもあるので、取り合えずは長生きしたオペラ作曲家と覚えておきましょう。

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