「歌曲の王」シューベルトの生涯

「フランツ・ペーター・シューベルト」。
この名前を聞いて真っ先に浮かぶのは歌曲「魔王」でしょう。
独特な曲調と歌詞は記憶に残りやすく、中学音楽のカリキュラムに含まれていたことから、今でもこの曲を覚えている方は多いのではないでしょうか?
今回はそんな「魔王」を作曲したシューベルトについて掘り下げていきます。

クラシック作曲家 シューベルト

 

貧困生まれであったシューベルト

シューベルトはオーストリア リヒテンタールの決して裕福ではない家庭に生まれた苦労人です。
本格的な音楽教育を施されたのは5歳の時のことで、アマチュア音楽家であった父の手ほどきを受け、その才能の片理を見せるようになります。
父は幼きシューベルトの能力を開花させるためには優れた環境が必要だと判断し、シューベルトをリヒテンタール教会の聖歌隊指揮者ミヒャエル・ホルツァーの指導する聖歌隊に預けることを決意。
父のおかげで聖歌隊の一員となったシューベルトはピアノやヴァイオリンといった楽器に触れることが出来るようになり、音楽家として成功するための環境に入るこむことができました。

聖歌隊

聖歌隊において一目置かれる存在となったシューベルトは11歳にして寄宿制神学(コンヴィクト)へ奨学金を受けて進学。コンヴィクトでも彼は才能を発揮し、その歌声にて人々を魅了しました。
また、この時期から作曲分野においても徐々に頭角を現していきます。

『愛されキャラのシューベルト』

シューベルトに関する文献の中では、彼は友に恵まれた人物とよく記されています。
つまり、人に好かれる人物だったわけです。
現に聖歌隊に在籍していた時も、寄宿制神学校時代も彼は多くの友人からサポートを受けながら努力を続けたという記録が残っており、貧しい生まれでありながらも彼が成功できたのは助けたくなる「いいやつ」だったからなのでしょう。

そしてこの特徴こそが今後の音楽人生の鍵となります。

教師と作曲家の二刀流生活

1813年に入り、シューベルトは変声期を迎えたことからコンヴィクトを去ることとなります。

その後シューベルトは教師として仕事をしながら作曲の勉強を続け、有名作曲家サリエリからの指導を受けながら実力を身に着けてます。
時には師からオリジナリティーの無さを指摘され、時にはつまらない教師という仕事に鬱気味になりながらも、様々なジャンルの音楽を手掛けました。
『糸を紡ぐグレートヒェン 』『ピアノのための4つのソナタ』『交響曲第2番変ロ長調 』といった有名楽曲もこの時期に作られています。

専業作曲家に転身

シューベルトに転機が訪れたのは教師となってから3年が経過した1816年のこと。
彼の曲を愛してやまない法律学生フランツ・ショーバー(金持ち)に作曲家として専念することを打診されたことによりシューベルトの運命は大きく変わります。

またとないショーバーの提案を受け入れることにしたシューベルトは安定的な教師の職を辞め、ショーバーの客人となることで作曲に専念する環境を得ます。

貴族の家

この時期の彼はピアノ曲や宗教曲、歌曲に交響曲といった様々なジャンルに挑戦し『交響曲第4番ハ短調 』『交響曲 第5番変ロ長調 』といった名曲を残します。
ただ、シューベルトが悠々自適に創作活動を行えたかと言えばそうではなく、シューベルトは実に貧困でした。
その理由はハイドンやモーツァルトのように公演を成功させていったわけでなく、こじんまりとした作品発表に留まっていたです。
ハッキリ言うと、あんまり売れていませんでした。
しかしながらシューベルトには他の作曲家にはない「ひとの良さ」があります。友人たちが率先して手助けをしてくれたおかげで、貧困でありながらも充実した創作活動をおくることができていたようです。

友人の輪から生まれたシューベルティアーデ

シューベルトの人柄を如実に表しているのがシューベルティアーデという音楽会。この組織はシューベルトの人脈から生まれたシューベルトを称える音楽会であり、一流歌手やピアニストが彼が作り上げた曲を演奏する会として、盛り上がりを見せました。

シューベルティアーデ
シューベルトはこの友との時間を何よりも大切にしており、このシューベルティアーデをキッカケに躍進を見せます。

1818年5月1日に刑務所コンサートとしてイタリア風序曲が演奏され、自身初の公演に成功します。
1819年には歌曲の作曲家として公演デビュー。1821年には誰もが知る名曲「魔王」を作曲し、ようやく出版にまで漕ぎつけます。
才能がありながらも結果が出なかった苦労人は、仲間の力を借りながらも遂に作曲家として世に認められるようになってきたのです。

ここからシューベルトとシューベルティアーゼの快進撃が始まる!
と思いたいところですが、魔王による出版後は失速し、3年間ほど冬の時代を過ごします。

劇付随音楽『アルフォンソとエストレラ』と『フィエラブラス』は規模が大きすぎたために公演に失敗。
他の力作も思ったような成果は出ず、シューベルトは世間に相手にされない不安を常に抱きながらの生活を送るようになります。

また、落ち込みやすいシューベルトはこの数年を限りなく鬱モードで過ごしたようです。
しかしながらシューベルトはこの時期に駄作ばかりを作っていたわけではなく、歌曲に至っては傑作ばかりを世に残します。
彼の繊細な感性から生まれた美しい旋律は次第に適正な評価を受けはじめ、1825年には相次ぐ楽譜の出版によりこれまでにない収入を得ました。
この優れた歌曲の数々により、シューベルトは後に歌曲の王と呼ばれるようになるわけです。

自ら死亡フラグを立て生涯を終える

肖像画からもわかるように、シューベルトは小太りでした。そのため健康状況は芳しくなく、28歳の若さにして体調を頻繁に崩すようになります。

そして、親交のあったベートヴェンが死去し、葬儀に参列した夜。彼は友人たちと訪れた酒場にて盛大な死亡フラグを立てます。

何故かハイテンションに「この中で最も早く死ぬ奴に乾杯!」と音頭をとったのです。
友人は恐らく「どうしたんだ、、こいつ」と思ったことでしょう。

そして、不吉な乾杯してしまった翌年。シューベルトは31歳という若さでこの世を去りました。

死後間もなくシューベルトの作品集が出版されましたが、当時の彼はベートーヴェンやモーツァルトよりも格下扱いであったため、「シューベルティアーデのための作曲家」と見なされました。
そのため、歌曲や小曲ばかりが出版され、交響曲といった大作は世に埋もれていくことなります。

死後に評価されたシューベルト

シューベルトは生きている間に名声を得ることは叶いませんでした。しかし、彼の死後から10年が経過した1838年2月にシューマンがシューベルトの兄フェルディナントの家を訪問したことにより、放置されていた彼の作品は日の目を見ます。

フェルナンドの家にてシューマンが見つけた作品は『交響曲第8番』。シューベルトを小曲と歌曲の作曲家だと思っていたシューマンはその認識の誤りに気づき、交響曲第8番を世に放つために友であるメンデルスゾーンに譜面を送ります。

そして、1838年3月21日。メンデルスゾーンの指揮、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏によって『交響曲第8番』が公演され大好評を博します。

この公演によりシューベルトの作品は注目を浴びるようになり、彼の残した作品の数々が研究されるようになりました。

シューベルトの名曲

友に支えられ、シューベルティアーデと共に数々の名曲を作り上げてきたシューベルト。歌曲に有名曲が多いですが、弦楽曲やピアノ曲、交響曲といった幅広いジャンルに良曲が存在します。

魔王


シューベルトの才能を世に知らしめるキッカケとなった「魔王」。激しい三連符のリズムで進んでいく強烈な個性は人々の記憶に鮮明に残ります。

歌曲集「白鳥の歌」より“セレナード”

 

セレナードはシューベルトの遺作となった歌曲集「白鳥の歌」に含まれる美しい曲です。「白鳥の歌」はシューベルトの死後に出版社や友人たちがまとめたことにより、世に残りました。

ピアノソロで演奏される機会もあります。

交響曲第7番 ロ短調 「未完成」 D.759

歌曲のイメージが強いシューベルトですが、交響曲第7番「未完成」はシューベルトが1822年に作曲した未完の交響曲です。3楽章ベートーヴェン「運命」ドヴォルザーク「新世界」とならぶ3大交響曲の一つとして数えられており、シューベルトを代表とする名曲です。

楽興の時 第3番 ヘ短調 作品94,D.780

CMやドラマによく使われるコミカルなピアノ曲。2分程度で終わるため聴きやすく、BGMとして最適です。

まとめ

シューベルトは生前よりも死後の方に評価を集めた典型的な作曲家です。貧困でありながらも友の力を借りて数々の名曲を残した彼の「人間性」に共感する方も多いでしょう。

彼の性格であれば、きっとどの時代に生まれても最終的に成功していたのかもしれませんね。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください