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シューマンの生涯 〜愛・成功・挫折・精神障害。激動の人生〜

前期ロマン派の作曲家として絶大な人気を誇るシューマン。
ベートーヴェン・シューベルト・ウェーバーといった作曲家の少し後に活躍した人物であり、文学にも精通したインテリ系作曲家として活躍した人物です。
彼は多くの悲劇と熱い恋愛による激動の人生を送りましたが、その生き様を象徴するかのような繊細で美しい名曲は死後から約170年が経過した今尚、多くの音楽ファンに愛され続けれています。

今回はそんなシューマンの生涯についてのお話です。

クラシック作曲家 シューマン

裕福な家庭で育ったシューマン

シューマンはドイツのツヴィッカウという街で出版業を営むアウグスト・シューマンと外科医の娘であるヨハンナ・シュナーベルの息子として生まれました。
両親とも知的指数が高く、経済的にも豊かであったことから、シューマンは恵まれた環境で才能を開花されていきます。

シューマンが音楽に興味を持ったのは7歳の頃です。
父と訪れたドレスデンにてウェーバー指揮によるベートーヴェンの交響曲を聴き、作曲家という職業に憧れを抱きます。
裕福な家庭に生まれたシューマンは芸術に触れ合う機会も多く、ピアニスト イグナーツ・モシェレスの演奏やモーツァルトのオペラ「魔笛」といった超一流の演奏を聴き続けたこともシューマンの才能開花の要因になりました。

財力による恩恵を受け、才能を開花させるシューマン

シューマンはただ裕福な家庭に育っただけでなく、音楽的なセンスにも恵まれていました。10歳になるころには自作曲を作れるようになっており、特にピアノ演奏の才能は抜群に優れてたとされています。

そんなシューマンの才能を更に開花させようとした父は「財力」により、シューマンの活動を強烈にサポート。超高価なシュトライヒャーのピアノを買い与え、作曲の勉強に必要な道具や楽譜を大量に揃えます。
おそらくこの話を聞いたらベートーヴェンやシューベルトが顔を真っ赤にして嫉妬に狂うかもしれません。それほどまでに、シューマンの環境は恵まれていました。

その後シューマンはギムナジウム(中高一貫校)にて勉学に励みながらもヨハン・ゴットフリート・クンチュというオルガニストに師事し、ピアノの演奏や作曲について学びます。
また父の影響からか文学にも興味を抱き、ドイツの小説家であるジャン・パウル作品を中心にゲーテ・ホフマンといった詩人の作品にも親しみました。

一見優等生にも思えるシューマンですが、自分の価値観と合わない人間を敵とみなしたり、複数の女性と同時交際したりと嫌な面も多々見受けられたようです。
現代に置き換えると「金持ちの家に生まれて苦労知らずに育ったら調子に乗った」といった感じでしょうか。

ただ、彼の心に闇を抱えさせる出来事が15歳の時に起こります。
それは父の病死と姉の入水自殺です。
これまで順風満帆な人生を送ってきたシューマンに大きなショックを与えたことは想像に容易いでしょう。

法律大学への入学とクララとの出会い

亡き父はシューマンが音楽家になることを望んでいましたが、母は音楽家になることを反対しており、シューマンは強制的に法律の道へ進まされます。

「良き家庭に生まれたならば安定した職に就くべき」という価値観は今も昔も変わらないわけです。

その後、しぶしぶ法律大学に入学することになったシューマンですが、どうしても法律への興味を持てず、大学の講義に参加せずに作曲に没頭する日々を送ります。
挙句ピアノ教師フリードリヒ・ヴィークの門下生となり、法律の勉強はそっちのけで作曲とピアノの勉強を始めました。(母には一応許可はもらえた)

この時期のシューマンはフリードリヒ・ヴィークの厳しいレッスンを受けながらピアノの腕前を磨いていくのですが、最も彼に影響を与えたのが娘クララとの出会いです。
クララ・ヴィ—クは若干9歳にして音楽界デビューを果たしたピアノの神童であり、同じ門下生であるシューマンとクララは徐々に親しくなります。
そして、この出会いがやがてシューマンの運命を大きく変えることとなるのです。

運命を変えたハイデルベルグ大学への転校

法科大学生であったシューマンは有名な法科教授の授業が受けられるとこを理由にハイデルベルグ大学に転校します。ただ、この理由は巧妙なウソであり、法律科のティボー教授が指導する音楽サークルに入りたかったことが真の理由でした。

ティボー教授は合唱団を組織し、著書を執筆するほどの実力を持ったアマチュア音楽家です。法律にも精通し、更に音楽にも携わる彼にシューマンは憧れを抱いていたのでしょう。

当時のシューマンは法律家になるべきか音楽家になるべきかを迷っていた時期であり、彼の指導を受けることで自分の道を決めようとしていたのかも知れません。
ハイデルベルグ大学で法律と音楽の二刀流生活を送っていたシューマンですが、やがてティボー教授から運命を変える見解を受けます。

「神はシューマンに法律家としての運命を与えていない」

この言葉を聞いたシューマンは自分の心に正直になるようになり、ピアノと作曲に自身の殆どの時間をささげるようになります。

そしてシューマンが20歳になった1830年。母に音楽家になる決意を伝えた後、数年間レッスンを受けていたフリードリヒ・ヴィークの弟子となり、音楽家への道を本格的に歩み始めました。

指を壊しピアニストとしての道が閉ざされる

フリードリヒ・ヴィークの住み込み弟子となったシューマンでしたが、性格の不一致から2年余りで師弟関係を解消します。その後は社交活動を行いながらピアノと作曲の腕前を上げていきますが、21歳の時に悲劇が起きます。

自ら開発した指トレーニングマシンで指を破壊

文字にしてみるとカッコ悪い事件ですが、テクニックを追い求めた結果指を壊し、シューマンのピアニストとしても道はここで終わりました。
この出来事は現代のピアニストにとっての戒めとなっており、無理なトレーニングを行うとシューマンのようになると恐れられています。
もうピアノを満足に弾くことは叶わない。
この事実にシューマンは絶望し、何度も音楽を辞めようと苦悩しますが、紆余曲折あって何とか立ち直り、やがて「作曲家」として生きていくことを決意します。
この時、ピアニストではなく作曲家としてのシューマンが誕生しました。

尚、この時期から「新音楽時報」の編集という仕事にも携わるようになり、執筆者としてのシューマンも同時に誕生しています。

※裕福な生まれであり、執筆にも携わったという点は同時代のベルリオーゼと似ている部分があります。ピアノが苦手(シューマンは弾けなくなった)という点も似ており、実に興味深いです。

 

関連記事:幻想交響曲を作り上げたベルリオーズの生涯

クララとの恋愛とヴィークとの確執

学生自体からシューマンは恋愛体質でしたが、成人してからも恋愛絡みの話題が絶えません。
24歳の頃にはヴィークの新弟子である18歳のエルネスティーネに恋に落ち、婚約にまで発展しますが、彼女の複雑な家庭事情が原因となり破談となります。
この恋愛中にシューマンは『謝肉祭』と『交響的練習曲』を作曲。恋が彼の創作意欲のモチベーションに繋がっていることが伺えます。

エルネスティーネとの恋が終わってしまったシューマンは、今度は学生時代から親しくしていたクララと恋に落ち、交際を開始。

一見軽い感じに付き合ったようにも思えますが、この恋はこれまでの恋とは一味も二味も違い、シューマンの生きる理由そのものと呼べるほどの大恋愛となります。

ただし、クララとの恋には大きな障害がありました。それはクララの父であり、以前に揉めてしまった師ヴィークの存在です。

ヴィークのシューマンに対する感情

 

■弟子になった際に揉めてスグに自分の元を去った奴
■教え子に手を出した奴
■娘に手を出した奴
■性格に問題がある奴

ヴィークはクララとシューマンが交際していることを知ると大激怒。これが長きに渡る抗争の始まりとなってしまいます。当たり前ですが、ヴィークがシューマンにもつ感情は良いものではありません。当然ヴィークは2人の恋愛を妨害し、クララをシューマンから遠ざけます。

しかし、クララとシューマンの恋愛はヴィークの想定以上に盛り上がっており、ここから泥沼の恋愛構想が始まりました。
この抗争は非常に長期に渡るため割愛しますが、最終的に法廷抗争にまで発展しながらも、2人は1840年9月12日にライプツィヒ近郊シェーネフェルトの教会で結婚式を挙げ、夫婦となりました。

多くの人を巻き込んだ争いは約5年も繰り広げられました。

クララ&シューマンによる名曲の数々

この時期にシューマンが作曲した曲はクララのために書かれた曲であり、『幻想小曲集』『ピアノソナタ第3番』『子供の情景』『クライスレリアーナ』『幻想曲』といったピアノ学習者にお馴染みの名曲を多数世に残しました。
ヴィークの妨害で会えない時間が続いた2人でしたが、シューマンが作り上げた曲をクララが演奏することによって愛を育んでいたようです。

シューマンの名曲(結婚前)

歌曲集「詩人の恋」より”美しき五月に”


ハインリヒ・ハイネの詩にシューマンが曲をつけた名作。彼の歌曲としては最も有名な曲であり、クララと結婚した1840年に書かれました。

「幻想小曲集」 作品12より”飛翔”


本格的にピアノを習っていた方なら一度は弾いた経験があるのではないでしょうか?幻想的でありながらも軽やかなメロディーはまさに飛翔という言葉がピッタリ合います。

 謝肉祭


幻想小曲集と双璧を成す初期のシューマンの代表作。全部で20曲からなるピアノ曲集であり、1835年に作曲されました。

子供の情景 トロイメライ


ピアノの小曲としてトップクラスの知名度を誇るシューマンの名作。大人から見た子供の日常を繊細に表現しています。子供の情景は全13曲で構成されていますがトロイメライは7曲目であり、1838年2月24日に作曲された作品です。

ピアノの作曲家からの脱皮

クララと結婚した後、シューマンは作曲家として次なる一歩を踏み出します。
まず行ったのは「歌曲」の充実です。
1840年は『ミルテの花』『女の愛と生涯』『詩人の恋』という有名曲を含む120曲以上にも及ぶ歌曲を作曲し、それまでのピアノ曲中心の作曲家というイメージを払拭します。

さらにシューマンはクララとバッハやベートーヴェンの楽曲の研究にも乗り出し、対位法や管弦楽に対するアプローチの引き出しをどんどん増やしていきます。
その結果、1841年には自身初となる交響曲第1番を作曲。同年には更に複数の交響曲を仕上げ、作曲家としての評価を着々と上げていきました。
シューマンは結婚した年の1840年においては歌曲を、1841年は交響曲を、1842年は室内楽曲を中心に手掛け、公私ともに充実した日々を送ります。

精神障害の発症

順調に見えたシューマンとクララの生活ですが、第1子が生まれ第2子の妊娠が発覚した1842年の時に綻びが生じます。

それはシューマンの精神障害の発症です。
当初は単なる過労だと思われていましたが、実は鬱病のような症状を発症しており、約2年間ほど他者との接触を拒むようになります。
この頃からシューマンは上がったり下がったりを繰り返す人生を送ることとなってしまいました。

 

ライプツィヒでの栄光とその終焉

しばらく精神状態が芳しくなかったシューマンですが、パリからシューマン夫妻が住んでいるライプツィヒを訪れたベルリオーズとの交流により、状況が上向きます。
そして、回復の兆しの中で作り上げたオラトリオ『楽園とペリ』が大ヒットを生み、シューマンの名声は街中に轟きました。
それまでは知名度の低いピアノ作曲家でしかなかったシューマンですが、遂に一流作曲家の仲間入りを果たします。
そして、その名声はあれほど揉めていたヴィークが和解を持ちかけてくるほど確固たるものだったようです。

和解

しかし、上がることもあれば下がることもあるのがこの時代のシューマン。
クララのロシア演奏旅行に同行したことをキッカケに、精神状況は再び地に落ちます。
旅の疲れもシューマンの状態を下げた原因の一つでしたが、本当にシューマンの精神を落ち込ませたのはクララの成功です。
確かにシューマンは以前に比べ評価を格段に上げました。ただ、それでもクララの名声には遠く及ばず、ロシア演奏旅行で彼女の成功を目の当たりにしたシューマンは劣等感を抱き、体調を崩してしまいます。

その後もシューマンの体調は芳しくなく、高所恐怖症・神経疲労・幻聴といった更なる精神障害を発症。
結果的にライプツィヒでの音楽活動を続けることは困難となり、気候が穏やかで過ごしやすいドレスデンへの移住を決めます。

ドレスデンでの日々

ドレスデンに越してきたシューマンですが、精神障害の症状は一向に改善されず、幻聴や耳鳴り、双極性障害に苦しみます。
しかしながら、作曲が出来る状態の時には『ピアノ協奏曲』や『交響曲第2番』といった作品を作り上げるなど、創作意欲自体は失われてはいませんでした。

また、この時期にシューマンは交友関係が極端であり、メンデルスゾーンと深い友好的な関係を結ぶ一方で、ドレスデンにて出会ったリヒャルト・ワーグナーとは険悪な関係が続きます。
特に保守的な音楽性を持つシューマンと改革的な音楽性を持つワーグナーの相性は芳しくなく、シューマンは自身の雑誌にてワーグナーの音楽性を批判しました。

音楽の発展が遅れていたドレスデン

当時のドレスデンはライプツィヒとは異なり音楽が大衆に根付いていない地でした。
具体的にはシューマンが得意とする器楽曲より貴族向けのオペラが人気を博している地であり、シューマンとは相性がよい街とは決していえなかったようです。

移住した当初は絶大な人気を誇るクララをもってしても、シューマンの楽曲はなかなか評価をされず、もどかしい日々を送りました。

しかし、人気ソプラノ歌手ジェニー・リンドとの共演やドレスデンでの人気ジャンルであるオペラの作曲にも取り掛かったことにより、次第にシューマンの評価は高まりを見せ、最終的にはドレスデンでもシューマン夫妻は成功を収めます。

この頃のシューマンは作曲家としての定職を探しながら作曲を続け、バッハの楽曲を広めるためのバッハ協会を設立するといった活動を展開。精神障害に苦しみながらも精力的に活動を行いました。
その結果1849年の秋にデュッセルドルフの音楽監督としてのポストを獲得。ドレスデンに別れを告げ、夫妻揃ってデュッセルドルフへと旅立ちます。

子だくさんとなったシューマン夫妻

危うい精神状態でありながらもシューマンは「子どもはたくさんいればいるだけよい」という考えの元、クララとの間に8人の子供を作ります。(ドレスデンを旅経つ時点では6人)
子だくさんであったことは2人にとって幸せなことでしたが、それだけ経済的に負担がかかることにも繋がり、結果的にはシューマンの精神を追い込む原因となってしまいました。

何だかんだで療養にはなったドレスデン

ちなみに、ピアノ曲として人気の高い『森の情景』や『子供のためのアルバム』はドレスデン在住時に作られており、自然豊かなドレスデンでの暮らしは少なからずシューマンの心を癒したのでないかといわれています。

遂にシューマン壊れる

デュッセルドルフで音楽監督に就任したシューマン夫妻は熱烈な歓迎を受け、大きな活躍を期待されます。体調が若干上向いていたシューマンはその期待に応えるべく『チェロ協奏曲』や『交響曲第3番 ライン』などの名曲を作曲。更には指揮者としてコンサートの成功させ、見事に期待通りの活躍をみせます。

しかしその代償は大きく、負荷がかかった心は急速に壊れ、度重なる失敗を繰り替えすようになります。

■度重なる指揮者としての失敗
■コミュニケーション能力の不足
■感情の起伏の激しさ

精神障害を抱えているシューマンは上記のような能力不足を露呈し、批判の的となります。
その結果危うい精神はさらい危うくなり、1852年夏には、神経過敏、憂鬱症、聴覚不良、言語障害も発症。
ますます心身ともにボロボロとなります。

シューマン 精神状況

勿論このような状況では音楽監督を続けることはできず、最終的にシューマンは全ての役職を下ろされ、音楽家としてこれ以上ない屈辱を味わいました。

もうこの時点でシューマンは殆ど壊れてしまったといっても過言ではありません。

ブラームスとの出会い

1853年のこと。もう既に壊れてかけていたシューマンですが、若干20歳の若き作曲家「ブラームス」がシューマン夫妻の家を訪れた時は人が変わったかのように元気になったといいます。

その後シューマンはブラームスの事を天才と称し、弟子に迎え可愛がりました。
ブラームスもシューマンを熱く信頼し、2人の関係はシューマンが生涯を終えるまで固い絆で結ばれたとされています。

また、ブラームスは気苦労の絶えないクララをサポートし、心の支えとなりました。
この二人の関係は後の世で様々な憶測を生みますが、一般的には「親友関係」であったとされています。

廃人としての終焉

ブラームスとの出会いによって一時は回復の兆しを見せたシューマンですが、1854年を迎えたころにはもはや精神は限界を迎えていました。

自我を保つことも危うくなったシューマンはクララや子供たちを傷つけることを恐れ、遂にライン川に身を投げ、入水自殺を図ります。

シューマン 入水自殺

運よく救助されたシューマンですが、そのまま精神科送りとなり、当時妊娠していたクララの負担とならないように単身でエンデニヒという地へ向かうこととなりました。

ちなみにシューマンが自殺を図ったことはクララには知らされず、彼が死去した後に知らされたようです。

エンデニヒでの最後

シューマンは最晩年の2年間をエンデニヒという地で過ごします。この地はいわばサナトリウムであり、徹底的に療養をしなければ生きていくことすらも儘ならない状態までシューマンの容態は悪化していました。

食事に毒が入っていると思い込む。
悪口の幻聴が聞こえる。
味覚も嗅覚もほぼない。
錯乱を起こす。
体が硬直して動かない。

もう、シューマンは音楽家ではなく廃人となっていました。

そして1856年7月29日午後4時、シューマンは46歳の生涯を閉じたのです。

意味深なクララとの最後のやり取り

シューマンの最後はクララによって看取られましたが、シューマンとクララが最後に交わした言葉が非常に意味深だったと言われています。

その言葉は以下の通りです。

シューマン「お前、僕は知っているよ・・・」

シューマンは何を思ってこの言葉を発したかどうかは定かではありません。ただ、これほどまでの大恋愛をした2人としては少し寂しい最後の言葉だったようにも思えます。

クララとブラームスの関係について言っているのか。それとも精神障害による妄言だったのか。

それは彼ら2人にしかわかりません。

クララと結婚した後に生まれたシューマンの名曲

後期シューマンが残した名曲の大半はクララのために作曲された曲です。どの曲もドイツロマン派の代表曲として高い評価を獲得しています。

交響曲第4番 ニ短調 Op.120


1841年にクララの誕生日プレゼントとして送った一曲。幻想的でありながらも憂いを帯びたシューマンらしい旋律が魅力的です。

3つのロマンス 第1番


1849年にクララへのクリスマス・プレゼントとして作曲したオーボエとピアノのための一曲。オーボエ奏者の貴重なレパートリーとして人気を博しています。

甘く美しい旋律からヴァイオリンで演奏されることも多いです。第1番〜第3番まであるので宜しければ全部聴いてみてください。

チェロ協奏曲


デュッセルドルフ時代に作られたシューマンの後期名曲「チェロ協奏曲」。ドヴォルザーク、ハイドンのチェロ協奏曲と並ぶ「3大チェロ協奏曲」の一角として有名です。

最後に

以前知人にシューマンの人生と作品に影響をうけた作曲家がいました。その彼は優れた作曲能力をもち合わせていながらも若くして自殺しました。

この経験から私はシューマンは「負の影響力」も大きい作曲家だと思っています。(シューマン自体も親族も自殺者が多く、少なからず負の影響を受けている)

ただ、その危うさ・憂い・儚い美しさもシューマンの魅力なのでしょう。

 

また、愛に生きた作曲家であることもシューマンを理解する上で大切なことです。

クララと出会ったことでシューマンは困難な人生を歩んでしまったとも言えますが、仮にクララに出会わなければ、これほどまでの大作曲家になることはなかったと思います。

彼の運命を大きく変え、良くも悪くも多大な影響を与えた人物がクララ。

まさにシューマンの生涯=シューマン&クララの生涯といっても過言ではありません。

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