精神障害を抱えたシューマンの壮絶な最後

クララの父ヴィークとの確執を乗り越え、クララとの恋を成就させたシューマン。
2人は1840年9月12日にライプツィヒ近郊シェーネフェルトの教会で結婚式を挙げ、夫婦となりました。
ここからクララとシューマンは二人三脚での創作活動を展開していくのですが、結婚後すぐに大きな問題を抱えることとなります。
それはシューマンの精神障害です。

今回はクララと結婚した後のシューマンがどのような生涯を歩んだかを掘り下げていきます。
クラシック音楽家として濃密な人生を展開させたシューマンがどのような最後を迎えたのか紐といていきましょう。

クラシック作曲家 シューマン

ピアノの作曲家からの脱皮

クララと結婚した後、シューマンは作曲家として次なる一歩を踏み出します。
まず行ったのは「歌曲」の充実です。
1840年は『ミルテの花』『女の愛と生涯』『詩人の恋』という有名曲を含む120曲以上にも及ぶ歌曲を作曲し、それまでのピアノ曲中心の作曲家というイメージを払拭します。

さらにシューマンはクララとバッハやベートーヴェンの楽曲の研究にも乗り出し、対位法や管弦楽に対するアプローチの引き出しをどんどん増やしていきます。
その結果、1841年には自身初となる交響曲第1番を作曲。同年には更に複数の交響曲を仕上げ、作曲家としての評価を着々と上げていきました。
シューマンは結婚した年の1840年においては歌曲を、1841年は交響曲を、1842年は室内楽曲を中心に手掛け、公私ともに充実した日々を送ります。

精神障害の発症

順調に見えたシューマンとクララの生活ですが、第1子が生まれ第2子の妊娠が発覚した1842年の時に綻びが生じます。

それはシューマンの精神障害の発症です。
当初は単なる過労だと思われていましたが、実は鬱病のような症状を発症しており、約2年間ほど他者との接触を拒むようになります。
この頃からシューマンは上がったり下がったりを繰り返す人生を送ることとなってしまいました。

ライプツィヒでの栄光とその終焉

しばらく精神状態が芳しくなかったシューマンですが、パリからシューマン夫妻が住んでいるライプツィヒを訪れたベルリオーズとの交流により、状況が上向きます。
そして、回復の兆しの中で作り上げたオラトリオ『楽園とペリ』が大ヒットを生み、シューマンの名声は街中に轟きました。
それまでは知名度の低いピアノ作曲家でしかなかったシューマンですが、遂に一流作曲家の仲間入りを果たします。
そして、その名声はあれほど揉めていたヴィークが和解を持ちかけてくるほど確固たるものだったようです。

和解

しかし、上がることもあれば下がることもあるのがこの時代のシューマン。
クララのロシア演奏旅行に同行したことをキッカケに、精神状況は再び地に落ちます。
旅の疲れもシューマンの状態を下げた原因の一つでしたが、本当にシューマンの精神を落ち込ませたのはクララの成功です。
確かにシューマンは以前に比べ評価を格段に上げました。ただ、それでもクララの名声には遠く及ばず、ロシア演奏旅行で彼女の成功を目の当たりにしたシューマンは劣等感を抱き、体調を崩してしまいます。

その後もシューマンの体調は芳しくなく、高所恐怖症・神経疲労・幻聴といった更なる精神障害を発症。
結果的にライプツィヒでの音楽活動を続けることは困難となり、気候が穏やかで過ごしやすいドレスデンへの移住を決めます。

ドレスデンでの日々

ドレスデンに越してきたシューマンですが、精神障害の症状は一向に改善されず、幻聴や耳鳴り、双極性障害に苦しみます。
しかしながら、作曲が出来る状態の時には『ピアノ協奏曲』や『交響曲第2番』といった作品を作り上げるなど、創作意欲自体は失われてはいませんでした。

また、この時期にシューマンは交友関係が極端であり、メンデルスゾーンと深い友好的な関係を結ぶ一方で、ドレスデンにて出会ったリヒャルト・ワーグナーとは険悪な関係が続きます。
特に保守的な音楽性を持つシューマンと改革的な音楽性を持つワーグナーの相性は芳しくなく、シューマンは自身の雑誌にてワーグナーの音楽性を批判しました。

音楽の発展が遅れていたドレスデン

当時のドレスデンはライプツィヒとは異なり音楽が大衆に根付いていない地でした。
具体的にはシューマンが得意とする器楽曲より貴族向けのオペラが人気を博している地であり、シューマンとは相性がよい街とは決していえなかったようです。

移住した当初は絶大な人気を誇るクララをもってしても、シューマンの楽曲はなかなか評価をされず、もどかしい日々を送りました。

しかし、人気ソプラノ歌手ジェニー・リンドとの共演やドレスデンでの人気ジャンルであるオペラの作曲にも取り掛かったことにより、次第にシューマンの評価は高まりを見せ、最終的にはドレスデンでもシューマン夫妻は成功を収めます。

この頃のシューマンは作曲家としての定職を探しながら作曲を続け、バッハの楽曲を広めるためのバッハ協会を設立するといった活動を展開。精神障害に苦しみながらも精力的に活動を行いました。
その結果1849年の秋にデュッセルドルフの音楽監督としてのポストを獲得。ドレスデンに別れを告げ、夫妻揃ってデュッセルドルフへと旅立ちます。

子だくさんとなったシューマン夫妻

危うい精神状態でありながらもシューマンは「子どもはたくさんいればいるだけよい」という考えの元、クララとの間に8人の子供を作ります。(ドレスデンを旅経つ時点では6人)
子だくさんであったことは2人にとって幸せなことでしたが、それだけ経済的に負担がかかることにも繋がり、結果的にはシューマンの精神を追い込む原因となってしまいました。

何だかんだで療養にはなったドレスデン

ちなみに、ピアノ曲として人気の高い『森の情景』や『子供のためのアルバム』はドレスデン在住時に作られており、自然豊かなドレスデンでの暮らしは少なからずシューマンの心を癒したのでないかといわれています。

遂にシューマン壊れる

デュッセルドルフで音楽監督に就任したシューマン夫妻は熱烈な歓迎を受け、大きな活躍を期待されます。体調が若干上向いていたシューマンはその期待に応えるべく『チェロ協奏曲』や『交響曲第3番 ライン』などの名曲を作曲。更には指揮者としてコンサートの成功させ、見事に期待通りの活躍をみせます。

しかしその代償は大きく、負荷がかかった心は急速に壊れ、度重なる失敗を繰り替えすようになります。

■度重なる指揮者としての失敗
■コミュニケーション能力の不足
■感情の起伏の激しさ

精神障害を抱えているシューマンは上記のような能力不足を露呈し、批判の的となります。
その結果危うい精神はさらい危うくなり、1852年夏には、神経過敏、憂鬱症、聴覚不良、言語障害も発症。
ますます心身ともにボロボロとなります。

シューマン 精神状況

勿論このような状況では音楽監督を続けることはできず、最終的にシューマンは全ての役職を下ろされ、音楽家としてこれ以上ない屈辱を味わいました。

もうこの時点でシューマンは殆ど壊れてしまったといっても過言ではありません。

ブラームスとの出会い

1853年のこと。もう既に壊れてかけていたシューマンですが、若干20歳の若き作曲家「ブラームス」がシューマン夫妻の家を訪れた時は人が変わったかのように元気になったといいます。

その後シューマンはブラームスの事を天才と称し、弟子に迎え可愛がりました。
ブラームスもシューマンを熱く信頼し、2人の関係はシューマンが生涯を終えるまで固い絆で結ばれたとされています。

また、ブラームスは気苦労の絶えないクララをサポートし、心の支えとなりました。
この二人の関係は後の世で様々な憶測を生みますが、一般的には「親友関係」であったとされています。

廃人としての終焉

ブラームスとの出会いによって一時は回復の兆しを見せたシューマンですが、1854年を迎えたころにはもはや精神は限界を迎えていました。

自我を保つことも危うくなったシューマンはクララや子供たちを傷つけることを恐れ、遂にライン川に身を投げ、入水自殺を図ります。

シューマン 入水自殺

運よく救助されたシューマンですが、そのまま精神科送りとなり、当時妊娠していたクララの負担とならないように単身でエンデニヒという地へ向かうこととなりました。

ちなみにシューマンが自殺を図ったことはクララには知らされず、彼が死去した後に知らされたようです。

エンデニヒでの最後

シューマンは最晩年の2年間をエンデニヒという地で過ごします。この地はいわばサナトリウムであり、徹底的に療養をしなければ生きていくことすらも儘ならない状態までシューマンの容態は悪化していました。

食事に毒が入っていると思い込む。
悪口の幻聴が聞こえる。
味覚も嗅覚もほぼない。
錯乱を起こす。
体が硬直して動かない。

もう、シューマンは音楽家ではなく廃人となっていました。

そして1856年7月29日午後4時、シューマンは46歳の生涯を閉じたのです。

意味深なクララとの最後のやり取り

シューマンの最後はクララによって看取られましたが、シューマンとクララが最後に交わした言葉が非常に意味深だったと言われています。

その言葉は以下の通りです。

シューマン「お前、僕は知っているよ・・・」

シューマンは何を思ってこの言葉を発したかどうかは定かではありません。ただ、これほどまでの大恋愛をした2人としては少し寂しい最後の言葉だったようにも思えます。

クララとブラームスの関係について言っているのか。それとも精神障害による妄言だったのか。

それは彼ら2人にしかわかりません。

クララと結婚した後に生まれたシューマンの名曲

後期シューマンが残した名曲の大半はクララのために作曲された曲です。どの曲もドイツロマン派の代表曲として高い評価を獲得しています。

交響曲第4番 ニ短調 Op.120


1841年にクララの誕生日プレゼントとして送った一曲。幻想的でありながらも憂いを帯びたシューマンらしい旋律が魅力的です。

3つのロマンス 第1番


1849年にクララへのクリスマス・プレゼントとして作曲したオーボエとピアノのための一曲。オーボエ奏者の貴重なレパートリーとして人気を博しています。

甘く美しい旋律からヴァイオリンで演奏されることも多いです。第1番〜第3番まであるので宜しければ全部聴いてみてください。

チェロ協奏曲


デュッセルドルフ時代に作られたシューマンの後期名曲「チェロ協奏曲」。ドヴォルザーク、ハイドンのチェロ協奏曲と並ぶ「3大チェロ協奏曲」の一角として有名です。

 

最後に

以前私の知人にシューマンの人生と作品に影響をうけた作曲家がいました。その彼は優れた作曲能力をもち合わせていながらも若くして自殺しました。この出来事によってシューマンには「負の影響力」も大きいと思っています。(シューマン自体も親族も自殺者が多く、少なからず負の影響を受けている)

シューマンは音楽史において他の作曲家とは少し異なる危険な何かを持っていると思います。ただ、その危うさ・憂い・儚い美しさこそシューマンの魅力なのでしょうね。

関連記事:愛に生きた作曲家 シューマンの生涯【生い立ち〜クララとの結婚】

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