進行状況は Instagram&Twitter にて更新中!

チェコ国民楽派の大御所「スメタナ」の生涯と代表曲

スメタナ クラシック作曲家

国民楽派の作曲家といえばシベリウスやグリーグ、ドヴォルザークといった作曲家が浮かびますが、チェコを代表とする大作曲家「スメタナ」も忘れてはいけません。

今回はチェコ国民楽派の開祖とされるスメタナの生涯とヴァイオリンで弾きたい代表曲について解説していきます。

我が祖国 モルダウは誰もが一度は聴いたことがあるはずです!

スメタナの幼少期

ベドルジハ・スメタナはチェコのパルドゥビツェ州リトミシュル生まれの作曲家です。

ビール醸造業者の家にて育ち、音楽好きであった父の影響を受け、幼少期からヴァイオリンとピアノに親しみました。

6歳の時には公の場で演奏するほどの腕前になり、その後「フランチシェック・イカヴェッツ」に師事し、作曲を若くして学んだといわれています。

この頃のスメタナは父の仕事の影響から転勤が多く、再度転校するなど環境の変化が大きい幼少期を過ごしました。

ただ、それが人格形成に悪い影響を与えたわけでなく、クラシック音楽家の中では比較的穏やかな幼少期を過ごしたとされています。

クラシック音楽 勉強

順風なスメタナの人生が少しつづズレ始めたのは15歳の時。

スメタナは家族の元から離れ、プラハ「アカデミック・グラマー・スクール」に進学しますが、学校に馴染むことができず不登校になります。

そんな傷心のスメタナの心を癒したのは音楽でした。

スメタナは学校に行かずコンサートに通い、幅広い音楽の教養を身につけます。
また、自らもアマチュア弦楽四重奏に参加するなど、精力的に音楽活動を行い、やがて「音楽こそが自分の生きる道」と確信します。

しかし、プラハでの生活は長くは続きませんでした。当たり前ですが、不登校であることが親にバレます。

結局スメタナは父にプラハから連れ戻され、プルゼニという街にて残りの学生生活を送りました。

スメタナ 学校生活

それでもスメタナの音楽への情熱は失われることはありませんでした。

夜会でピアニストとして名声を博すなど、プルゼニにおいても音楽活動を多岐にわたって展開。

やがてスメタナが音楽家を目指すことに反対していた父も、息子の音楽に対する姿勢を見ているうちに考えが変わり、音楽家の道を追うことに賛成します。

そして19歳の夏。プルゼニの学校を卒業し、音楽を目指すために再びプラハへと赴きました。

青年期のスメタナ-駆け出し音楽家として

プラハで音楽家として活動を始めたスメタナですが、音楽科による教育を受けていなかったことから、まずは作曲の専門的な勉強が必要でした。

そんなスメタナに救いの手を差し伸べた人物がプラハ音楽大学の長であるヨゼフ・プロクシュ。

彼はスメタナの師となり、スメタナの経済的貧困を救うために貴族トゥーン家の音楽教師の職を与えるなど、公私ともにサポートを惜しまなかったという記録が残されています。

3年に及ぶプロクシュによる修行を終えたのちは室内楽コンサートの伴奏者として生計をたて、音楽家としてのキャリアを積みました。

音楽家 キャリア

この時代に残されている主な曲は以下の通り

『祝典序曲 ニ長調』
『6つの性格的な小品』

スメタナに転機が訪れたのは1848年のこと。フランツ・リストに才能を認められたことをキッカケに援助を得ることができるようになり、スメタナの作曲活動は加速的に広がりを見せます。

フランツリスト

若き日のフランツ・リスト

 

1849年にはカテジナという女性と結婚し、伴侶を得ます。

その後フェルディナント1世の常任宮廷ピアニストの職につき、金銭的な余裕を得たスメタナは作曲活動を幅広く展開させ、『祝典交響曲』『婚礼の情景』といった作品を作曲。

徐々にではありますが、知名度を上げていきました。

ただ、この時期のスメタナは公演が上手くいかず、作曲家としての評価はイマイチだったといわれています。

不幸の連鎖

スメタナが30歳を迎えたころ。不幸の連鎖が彼を襲います。

長女のベドジーシカ、次女ガブリエレ、四女カテジナが相次いで死去。

妻カテジナも結核の診断を受け、旧友カレル・ハヴリーチェク・ボロフスキーもこの世を去りました。

また、コンサートでの酷評が続いたことに加え、プラハの政治的治安が悪化の一途を辿っていることからスメタナは「プラハ」という街に嫌気がさしてしまい、32歳になるころにチェコを見限り、スウェーデン・ヨーテボリへ旅立ちました。

スウェーデン ヨーテボリ

中期のスメタナ-第2の故郷とプラハへの挑戦

「プラハは私を認めようとしない」と両親へ手紙を残し、ヨーテボリへと移住したスメタナですが、ヨーデボリでは僅か数か月で認められるようになり、社会的地位を得ます。

ヨーテボリは音楽の発展が遅れていたので、スメタナほどの実力があればスグに超一流扱いだったわけです。

ヨーテボリ時代の主な作品

 

『舞踏会のおもかげ ポルカ編曲』
交響詩『リチャード三世』
交響詩『ハーコン・ヤルル』
ピアノ曲『マクベスと魔女』

交響詩を多く残している理由はリストと親交が深かったことが挙げられます。ヨーテボリ時代においてもワイマールまでリストに会いに行っており、如何にスメタナがリストを敬愛していたかが伺えます。

ワイマール クラシック

 

充実したヨーテボリ時代を過ごしたスメタナですが、妻カテジナに死期が迫り、最後は故郷で生涯を終えたいという希望を汲み取りドイツ ドレスデンへ移住。

同地でカテジナが亡くなった後はワイマールでリストと一時期共に暮らし、その後、弟であるカレルの家に滞在します。

その後カレルの義理の姉妹で16歳年下のベッティーナと恋に落ち、1860年に再婚。

この時期からスメタナは民族主義的な作品の作曲に取りかかるようになり、自身の方向性を確立させていきます。

再びプラハへ

プラハに国民劇場が建設が決まったことキッカケにスメタナは再びプラハへ移住。

作曲スタイルをオペラに絞り成功を狙いました。

政治的混乱が続くプラハでの活動は簡単なモノではありませんでしたが、最初のオペラ「チェコのブランデンブルク人」、第2番目のオペラ「売られた花嫁」、第4作目のオペラ「リプシュ」などが名声を得て、同劇場の指揮者に上り詰めました。

チェコ プラハ

また、チェコ語の教育を受けていなかったスメタナはチェコ語での表現に苦手意識をもっていましたが、努力によってこれを克服。音楽評論家になるまでになります。

晩年のスメタナ 病とモルダウ

派閥争いが激化しているチェコにおいて浮き沈みの激しい作曲家生活を送っていたスメタナですが、保守派の妨害工作に会いながらもオペラ作曲家として成功を収めました。

特に1868〜74年の時期はスメタナの全盛期となり、プラハの一流作曲家と認められるようになります。

しかし、そんなスメタナに悲劇が訪れます。

ストレスの多い生活を送っていたためか耳の持病にかかり、1874年に両耳を失聴。

音楽家として致命的な聴力を失ってしまいます。

スメタナ 難聴

失聴したスメタナは保守派の攻撃に合い、音楽家としての職を奪られ生活苦に。さらには妻ベッティーナとの関係も悪化し、積み重ねてきたものが一気に崩れていきました。

ただ、そんな絶望的な状況下の中でも作曲をすることを辞めず、遂に代表作を作曲します。

それが連作交響詩「我が祖国」です。

我が祖国は1874年から1879年にかけて作曲された6つの交響詩からなる連作交響詩であり、チェコ国民音楽の記念碑的な作品とするために数年構想を練って作られた曲です。

有名なのは第2番 モルダウであり、この曲は誰もが1度は聴いたことがあるでしょう。ちなみに、この曲を書き終えた時にスメタナの耳は完全に聴こえなくなったといわれています。

スメタナ モルダウ

その後も耳が聴こえない状態でありながらも『弦楽四重奏曲第1番 ホ短調「わが生涯より」』、ピアノ曲『チェコ舞曲集』3つのオペラ『口づけ』、『秘密』、『悪魔の壁』といった曲を創り上げ、遂に若き頃から思い描いてきたプラハNo.1作曲家としての地位を確立します。

ただ、その時にはもう既にスメタナは脳梅毒の末期症状(諸説あり)にかかっていました。

精神錯乱にも陥っており、1884年5月12日にプラハの精神病院においてその生涯を終えます。

スメタナの代表曲

スメタナといえば晩年に作曲された「我が祖国」が圧倒的に有名。その他にも数々の名曲が存在しますが演奏される機会は少ないです。

我が祖国 第2番『モルダウ』

1874年11月20日から12月8日の間に作曲されたスメタナの超有名曲。ヴルタヴァとも呼ばれるこの曲はチェコ国内最大の川であるヴルタヴァ川の流れを描写しています。

合唱曲や歌曲、さらにはロックやジャズにもアレンジされるほど、世界中で愛されている一曲です。

弦楽四重奏曲第1番 ホ短調 「わが生涯より」


スメタナ自身の生涯を象徴する半自叙伝的な内容をもつ室内楽曲。聴力を失ったスメタナが作り上げた晩年の作品であり、演奏難易度が非常に高い曲としても知られています。
クラシック音楽としては珍しいヴィオラが主旋律を担当することが多く、同奏者のレパートリーとしても重要視されています。

わが祖国 第3番「シャールカ」

プラハの北東にある谷「シャールカ」をモチーフとした作品。チェコの伝説『乙女戦争』に登場する勇女の名が谷の由来であり、その物語の内容をスメタナは管弦楽で表現しました。

曲調は激しく、その迫力から「わが祖国」の6曲の中でも印象に残りやすい曲といえます。

最後に

プラハでの成功を目指し、政治的対立に巻き込まれながらもプラハNO.1作曲家となったスメタナ。夢が叶った時にはもう既に耳も聞こえなくなり、精神も蝕まれていましたが、その不屈な精神によって作られた名曲の数々は今尚色褪せません。

幸福な人生とはいえなかったスメタナではありますが、その苦労があるからこそ完成した曲も少なくないでしょう。

マイナーでもメジャーでもない作曲家ですが、この機会にいろんなスメタナを楽しんでみてはいかがでしょうか?

合わせて読みたい関連記事

クラシック作曲家 ドヴォルザーク「新世界」を書き上げたドヴォルザークの生涯 シベリウス クラシック作曲家フィンランドが誇る英雄 シベリウスの生涯 これだけは知っておきたいクラシック作曲家30傑

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください