繊細で内気な性格だったチャイコフスキーの生涯

メルヘンチックな曲調から現代においても人気が高いチャイコフスキー。
彼は多岐に渡る作品を作り上げ、バレエ音楽「くるみ割り人形」「白鳥の湖」といった名曲を世に残した有名作曲家です。
今回はそんなチャイコフスキーがどのような人物だったのかを紹介します。

クラシック音楽家 チャイコフスキー

遅いキャリアスタートであったチャイコフスキー

クラシック音楽家の大半は幼少期から英才教育を受けて育った人物が目立ちます。
しかし、鉱山技師の次男として生まれたチャイコフスキーは専門的な音楽教育を施されることなく育ちました。(趣味としてはピアノを嗜んではいます)

チャイコフスキーが生まれたのはロシア ウラル地方ヴォトキンスク。当時のロシアはオーストリアやイタリア等の欧州国と比較すると音楽が盛んである国とはいえなかったため、音楽家として大成するには不利な環境に生まれたといってよいでしょう。

このような土台からチャイコフスキーはサンクトペテルブルクの法律学校に進学し、卒業後は法務省の職員としてごくごく普通の人生を歩みます。

法務省

しかし、21歳の秋に転機が訪れます。
幼少期から趣味として作曲やピアノ演奏を嗜んでいたチャイコフスキーですが、知人から音楽文化の発展のために活動する「帝室ロシア音楽協会(現:サンクトペテルブルク音楽院)」の存在を聞かされます。

音楽への関心を常に抱いていたチャイコフスキーは思い切って帝室ロシア音楽協会に入会。晴れて本格的な音楽教育を受けることができるようになりました。

そして、元々高いポテンシャルを誇っていたチャイコフスキーの才能はここで一気に開花します。

音楽教師として働きながら創作活動に勤しむ

ペテルブルク音楽院を卒業したチャイコフスキーは本格的に音楽の道へ進むことを決意し、安定した法務省職員を辞めて帝室ロシア音楽協会モスクワ支部の音楽教師に就任します。

また、この就任に伴いチャイコフスキーはモスクワに生活の拠点を移しました。

モスクワ チャイコフスキー

26歳のころには支部から新たに創設されたモスクワ音楽院に音楽理論の教師として招かれ、以後12年間勤め上げます。チャイコフスキーは有名な作曲家ですが、実は彼のキャリアのメインは「音楽教師」だったわけです。

もちろんチャイコフスキーは音楽教師だけでキャリアを終わらせるつもりはありません。

若手の指導を行う傍ら「作曲家」としても活動し、この12年の間に様々な名曲を残しました。

作品名
1875年 ピアノ協奏曲第1番
1876年 交響曲第4番
1877年 バレエ『白鳥の湖』
1877年 オペラ『エフゲニー・オネーギン』

特に注目したいのはバレエ曲『白鳥の湖』。当時のバレエはお世辞にも注目を浴びている音楽ジャンルであるとはいえませんでしたが、チャイコスフキーは以前よりこのジャンルに興味を示していました。

1875年にボリショイ劇場から『白鳥の湖』の作曲を依頼された後はバレエ曲の奥の深さにのめり込んでいきます。

突如引っ越し魔となるチャイコフスキー

38歳のある日。チャイコフスキーは作曲に専念するために教師の職を辞職しました。
ただ、その後の彼はモスクワで大作の作曲に挑戦するわけでもなく、なぜかヨーロッパの主要都市を転々と渡りあるく引っ越し魔となり、旅人のような生活を約10年も続けます。

旅人

なぜこのような生活を送るようになったのか?それはチャイコフスキーが結婚に大失敗してしまったからです。

やばい女に捕まったチャイコフスキー

チャイコフスキーは繊細で内気な性格から人間関係に苦手意識を持っていました。ボロディン、ムソルグスキー、リムスキーといった同時期に活躍した作曲家とも積極的に関わることもせず、1人でいることが多かったのも内気な性格が理由だったといわれています。

しかし、37歳を迎えたチャイコフスキーは「アントニーナ・ミリューコヴァ」という20歳の女性に猛アピールされ、人間関係が苦手なのに半ば強制的に結婚することになってしまいます。

そしてこの選択がチャイコフスキーを苦しめるのです。

結婚 失敗 チャイコフスキー

アントニーナ・ミリューコヴァはかなり人間性に問題がある人間で、チャイコフスキーは結婚後すぐに彼女に嫌気がさしてしまいました。
すぐにチャイコフスキーは離婚の申し立てをしましたが、アントニーナはそれに応じてはくれず、徐々に彼の精神は蝕まれます。
そんな生活が続いた結果、チャイコフスキーは自殺未遂を起こし、遂には精神病院送りとなってしまいました。

しかし、病院送りになった後もチャイコフスキーはまだ離婚することが出来ず、やむを得ず少しでもアントニーナから逃げるために海外を拠点に作曲活動を行うことを決めます。

これこそが彼が引っ越し魔になってしまった理由です。
最終的には1881年にようやく離婚することができましたが、間違いなくこの結婚によってチャイコフスキーの寿命が縮まったといえます。

晩年のチャイコフスキー

悪女との生活を終え、自由の身となったチャイコフスキー。45歳のころに遂にロシアに戻り、モスクワ郊外のマイダノヴォ村に家を借ります。

転居癖が染みついていた為、結局晩年まで転居(移行は近場)を繰り返しましたが、基本的にはロシアの田舎にて作曲活動を続けました。都心で暮らすのに疲れてしまったのかもしれませんね。

チャイコフスキー 田舎暮らし

チャイコフスキーは晩年に輝きを放った作曲家であり、人気曲はキャリアの終盤に集中しています。この時期に名曲を多く残せた理由としては、無駄な人間関係がなくなったことが挙げられます。

もともと繊細で内気な性格であったチャイコフスキーにとっては教師として教壇に立つよりも、創作活動に集中する方が適していたのでしょう。それにアントニーナと決別できたこともチャイコフスキーに大きなエネルギーを与えました。

つまり、「音楽に没頭できた」ことこそが名曲を世に残せた一番の理由といえます。繊細で内気な人間が人間関係で苦労するのはいつの世でも一緒なのですね。

尚、この時期にチャイコフスキーが作り上げた有名曲は以下の通りです。

作品名
1888年 交響曲第5番
1888年 バレエ『眠れる森の美女』
1891年 バレエ『くるみ割り人形』
1893年 交響曲第6番『悲愴』

やはり大半の方がもつイメージ通り「バレエ曲」に名作が目立ちます。ピアノ曲や室内楽曲も多数作曲されていますが、人気は圧倒的にバレエ曲の方が上です。

コレラ?自殺?諸説あるチャイコフスキーの死因

負の時代を乗り越え、音楽家としての自らのキャリアに花を添えたチャイコフスキーでしたが、1890年にその輝きに終止符が打たれます。

これまでずっとチャイコフスキーの活動を支えてくれたフォン・メック夫人に資金援助を打ち切られてしまったのです。

経済的な後ろ盾がなくなったチャイコフスキーは気力も体力もみるみる衰えていき、1893年(53歳)の時にコレラに感染し、その生涯を終えました。

死因については諸説あり、ゲイであることがバレることを恐れて毒を飲んだ説もとも存在します。
真実は謎に包まれていますが、チャイコフスキーほどの才能が若くして失われてしまったことだけは確かです。

※チャイコフスキーがゲイであったことはほぼ確定事項ですが、その詳細については他の記事にてご紹介します。

チャイコフスキーの名曲

バレエ曲は一般人に馴染みのない音楽と思われがちですが、チャイコフスキーのバレエ曲は誰でも一度は聞いたことのある有名曲ばかりです。

1曲1曲が短いので、普段クラシックを聴かない人でも親しみやすいと思います。

バレエ曲 白鳥の湖より情景


チャイコフスキーが作曲した3大バレエの一つ白鳥の湖。第2幕「月光に照る湖のほとり」の前奏曲として演奏される”情景”は誰もが一度は聞いたことがある名曲です。

バレエ曲 くるみ割り人形 より トレパーク


トレパックはロシアの踊りという意味を持つ楽曲であり、運動会BGMとして有名です。この曲には良い思い出も悪い思い出も蘇る魔力が込められています。
なお、「くるみ割り人形」、人形の形をした胡桃を割る道具のことです。

バレエ曲 くるみ割り人形 より 金平糖の踊り


「金平糖の踊り」は、チェレスタの音色を生かして作り上げられたクリスマスシーズンの名曲です。この曲のどこか優しい不思議な世界観はチャイコフスキーならではの感性が表現されています。

まとめ

繊細で美しい名曲を残したチャイコフスキーはそのイメージ通り繊細で内気な性格の持ち主であり、10回以上も「うつ病」になってしまうほど悩みやすい人物であったといわれています。

ただ、その分弱者に対するに思いやりも人一倍強い人でした。

このような性格であったからこそ、彼の作り上げる曲には親しみやすさがあるのかもしれません。

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