「ジュゼッペ・ヴェルディ」。
彼はイタリアのロマン派作曲家として「オペラ」を発展させたオペラ界の巨匠です。
1813年、リヒャルト・ワーグナーと同じ年に生まれたヴェルディは87歳まで生き、クラシックの大作曲家としては第3位となる長寿を全うした人物でもあります。
今回はそんなヴェルディがどのような生涯を送ったのかを覗いていきましょう。
目次
幼少期〜青年期のヴェルディ
ヴェルディの出生地はイタリアロマーナ州近郊にあるレ・ロンコーレ村。
決して裕福とはいえないこの地で彼は家業である酒屋兼宿屋を手伝いながら育ちました。
音楽に最初に興味を持ったのは8歳のころであり、父から小型チェンバロを買ってもらったことをキッカケに、演奏に没頭したといわれています。
その後、10歳にして村指折りのチェンバロ/パイプオルガン奏者となったヴェルディは父の勧めにより親元を離れ、下宿をしながらブッセートという街の上級学校と音楽学校に進学。そこで作曲と演奏の技術を磨きました。
17歳の時にはヴェルディを援助してくれている音楽好きの商人バレッツィ家に住み込むようになり、18歳の時にはミラノに住むオペラに精通する音楽教師「ヴァンチェンツォ・ラヴィーニャ」に師事します。
ラヴィーニャの影響を受けたヴェルディは次第にオペラへの興味を膨らませるようになり、その後着々と才能を開花させていきました。
ミラノでの成功を夢見て
ヴェルディはオペラの聖地ミラノでの成功を夢見て作曲活動を続けていましたが、22歳の時に恩人であるバレッツィの要請により、ブッセートに戻り音楽教師としての生活を送ることとなります。
ミラノでの成功を夢見ていた彼にとっては些か悔いが残る選択となりましたが、経済的に支援をしてもらっているバレッツィを裏切ることは出来ず、要請を素直に飲み込むことにしました。
ブッセートに戻ったことをキッカケに、ヴェルディはバレッツィ家の長女マルゲリータと結婚。
子供にも恵まれ、ヴェルディは安定した職と家庭を持つ「普通の生活」をスタートさせます。
が、しかし。
どうしても夢をあきらめきれなったヴェルディは1839年に一家で再びミラノに移住。
安定した生活を捨て、夢へ再チャレンジすることを決めました。
義父となったバレッツィもこの選択を尊重し、経済的な支援を継続したといわれています。
退路を断ち、家族を自分の実力で食わせていくしかないヴェルディは精力的な作曲活動をミラノにて展開。移住してから1年に立たないうちに処女作『オベルト』をスカラ座で公演することに成功します。
この公演は見事に好評を博し、楽譜の出版、さらにはスカラ座の専属作曲家としての契約を勝ち取りました。
オペラ作曲家としてここからヴェルディのサクセスストーリーが始まる!と本人も家族も思っていたことでしょう。
家族の死とモチベーションの喪失
しかしながら運命はヴェルディに強烈な試練を与えます。
長女が病気で1歳7カ月という短い生涯を終え(1838年 ブッセート)、翌1840年には長男も死去。
そしてなんとその翌年の翌1841年には妻マルゲリータすら病気で亡くし、ヴェルディは若くして全ての家族を失い、孤独な生活を送ることとなりました。
この一連の不幸のダメージはあまりにも大きく、ヴェルディは作曲が出来なくなるほど精神を病み、オペラ
「一日だけの王様」の公演に大失敗。
完全にモチベーションを失った彼はそのまま暫く「引きこもる」ことになります。
再起を図るヴェルディ
音楽から身を引いていたヴェルディですが、スカラ座支配人メレッリの説得により再起を図ります。
当初はどんな説得にも応じない予定でしたが、旧約聖書のナブコドノゾール王を題材にした台本の「行け、わが思いよ、黄金の翼に乗って」というセリフに感化され、もう一度作曲活動を再開することにしました。
ヴェルディが失意を乗り越えて完成させた作品こそ、彼の傑作『ナブッコ』です。
第3幕にはヴェルディに再起を決意させた「行け、わが思いよ、黄金の翼に乗って」の合唱が取り入れられ、ナブッコは当時盛り上がっていたイタリア統一運動の精神に共鳴し凄まじい人気を博します。
最終的にナブッコは57回もスカラ座で公演されスカラ座の新記録を樹立。この成功によりヴェルディは一躍有名人となり、富と名声を得ました。
その後、売れっ子となったヴェルディは年1回のペースでオペラを作り上げていきます。
この時期の主な作品は以下の通りです。
年 | 作品名 |
---|---|
1839年26歳 | オベルト |
1840年27歳 | 一日だけの王様 |
1842年29歳 | ナブッコ |
1843年30歳 | 十字軍のロンバルディーア人 |
1844年31歳 | エルナーニ、二人のフォスカリ |
1845年32歳 | ジョヴァンナ・ダルコ、アルツィーラ |
1846年33歳 | アッティラ |
1847年34歳 | マクベス、群盗、イエルサレム |
1848年35歳 | 海賊 |
1849年36歳 | レニャーノの戦い、ルイーザ・ミラー |
1850年37歳 | スティッフェーリオ |
ナブッコで名声を博したヴェルディはミラノスカラ座以外の劇場とも複数契約を結び、超ワーカーホリックになりながら曲を仕上げ続けていました。
家族が亡くなってしまって仕事しかやることがなかったこともワーカーホリックになってしまった理由でしょう。
来る日も来る日も仕事。一度過労で倒れることもありましたが、すぐに復帰し作曲活動を続けていきました。
各都市で公演を次々と成功させたヴェルディの名声は益々ヨーロッパ中に知れ渡るようになりました。この時既にイタリアオペラの作曲家としては間違いなくNO.1に上り詰めていたといえます。
再婚とその後の音楽活動
家族を失ってから1人で創作活動に命を燃やしてきたヴェルディですが、実は「ジュゼッピーナ」という女性との交際を始めていました。(知り合ったのは結構前)
『マクベス』を作曲した時期(34歳ごろ)からジョゼッピーナと交際は始まっており、ジョゼッピーナが居住していたパリ郊外に一緒に住んだり、ヴェルディの故郷であるブッセートに住んだり、約10年にも及ぶ同棲生活を続けました。
そしてヴェルディが38歳になったころ、彼はボローニャ県にありサンターガタに農地と大きな別荘を立て、そこで農園経営を行いつつ「ジュゼッピーナ」と穏やかに暮らすことを決めます。(劇場とのいざこざや団員に対して嫌気がさしつつあった)
事実婚という形で農園での生活はスタートし、45歳の時に遂にジュゼッピーナと再婚。欧州の社会情勢や忙しい作曲活動の影響もあり、なかなか結婚に踏み切れませんでしたが、再びヴェルディは家族の安らぎを手にすることが出来ました。
サンターガタに引っ越した後はヴェルディは曲を仕上げるペースを下げ、隔年で1作品程度のペースとなります。作品数自体は減りましたが、創作意欲自体はまだ失われてはいなかったようです。
年 | 作品名 |
---|---|
1851年38歳 | リゴレット |
1853年40歳 | イル・トロヴァトーレ 椿姫 |
1855年42歳 | シチリアの晩鐘 |
1857年44歳 | シモン・ボッカネグラ |
1859年46歳 | 仮面舞踏会 |
この時期に作曲されたオペラで最も重要な作品はリゴレットです。この作品は政治色が強く、オペラにはそぐわない作品とされていましたが、ヴェルディはこれまでのオペラにはない型破りな構成を練ることによってオペラ化に成功。見事に観衆を圧倒する作品に仕上げ、イタリア・オペラの一大傑作と呼ばれる作品に昇華させました。
なぜか政界に進出したヴェルディ
農園にて妻ジュゼッピーナとの暮らしを楽しみながら創作活動を続けてきたヴェルディですが、宰相カヴールの要請により、なぜか政界に進出することになります。(国会議員に当選)
ただ、ヴェルディは宰相カヴールへの尊敬だけで政界入りを果たしたので、実はそんなに政治には興味がありませんでした。
そんな中、ヴェルディを政界へ誘ったカヴールが死去。
完全にモチベーションを失ったヴェルディは大した功績を上げることなく任期を満了します。
ヴェルディ自体は「何やってんだ俺」と思ったでしょうが、サクッと政界入りできてしまうほど知名度・人気があったことは本当にすごいことです。
年 | 作品名 |
---|---|
1862年49歳 | 諸国民の賛歌、運命の力 |
1867年54歳 | ドン・カルロ |
1871年58歳 | アイーダ |
この時期に作り上げたオペラで特に注目したいのは58歳の時に作り上げた『アイーダ』。この作品はヴェルディの集大成といえる作品であり、現代においてもオペラの定番作品として知られています。
最晩年までオペラを作り続けたヴェルディ
アイーダ作曲後のヴェルディは音楽活動の休止・再開を繰り返しながらの生活を続けます。
この時期には音楽家としての人生に対するこだわりが薄れており、「私はもともと農家である」と自虐ネタすら披露するようになっていました。
たとえ若い作曲家がワーグナーに陶酔するようになっても、あまり気にしなかったようです。
また、晩年のヴェルディは農園経営をメインとしながらも慈善活動も精力的に行こなっています。
75歳の時にはヴィッラノーヴァに慈善病院を開院。86歳の時には老人ホーム「音楽家のための憩いの家」を建造し、最後まで人の役に立つために尽力し続けました。
年 | 作品名 |
---|---|
1887年74歳 | オッテロ |
1893年80歳 | ファルスタッフ |
オペラの作曲家としては80歳の時に作曲した喜劇ファルスタッフを最後に引退。
1897年には妻ジュゼッピーナが死去し、更に4年後の1901年1月27日。ヴェルディは脳卒中によってこの世を去りました。
1度目の結婚はすぐに妻との別れが訪れましたが、ジュゼッピーナとの生活はヴェルディが亡くなる4年前まで続いたため、ヴェルディにとっては幸せな人生だったといえるのではないでしょうか。
ヴェルディの名曲
ヴェルディはオペラに特化した作曲家であり、代表作としては『ナブッコ』、『リゴレット』、『椿姫』、『アイーダ』といった作品が挙げられます。
単独で曲だけが演奏される機会は多くはありませんが、この記事の締めくくりとして絶対的に知名度の高い2曲を紹介します。
「アイーダ」より”凱旋行進曲”
間違いなく誰もが聴いたことのある名曲。そう、この曲はサッカー日本代表の応援歌の原曲です。一般的な知名度が低いヴェルディですが、実は結構身近な作曲家だったりもします。
レクイエム
オペラではありませんが、ヴェルディの「レクイエム」は日本人にとって馴染みの深すぎる作品です。この曲の「怒りの日」はアニメ:エヴァンゲリオンや映画:バトルロワイヤルで使用され、クラシック音楽の中でもトップクラスの人気と知名度を誇るようになりました。
正式名称は「マンゾーニの命日を記念するためのレクイエム」といい、ヴェルディが60歳の時にアレッサンドロ・マンゾーニを追悼する目的で作曲された作品です。
まとめ
ヴェルディはロマン派音楽家の重要人物です。改作も含めると「28作品」にも及ぶ数の作曲を担当し、イタリアオペラの発展させました。
どうしても現代人にとってはオペラは馴染みが薄いためヴェルディの名は埋もれがちですが、実は誰もが知る名曲を作り上げた大作曲家でもあります。
初めてのオペラ鑑賞にも最適ですので、彼の名は是非覚えておいてください。
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